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上里キリストチャペルは埼玉県北部にあるキリスト教会です。

〒369-0311 埼玉県児玉郡上里町勅使河原1166

聖書ワンポイントメッセージCONCEPT

「聖書ワンポイントメッセージ」は毎週日曜日13:15~14:00のバイブルコーヒーアワーから抜粋したメッセージをワンポイントでまとめたものです。毎週のバイブルコーヒーアワーはオンラインでも参加いただけます。
参加は[定期集会]のページのオンラインバイブルコーヒーアワーから(毎週日曜13:15~14:00)

2024-11-03
「私たちの本来のあるべき姿」
2024-10-06
「一粒の麦」
2024-08-04
「イエスの成した「奇跡」から考える ~カナでのイエスの最初の奇跡から~」
2024-07-07
「聖書が語る罪の本質と解決」
2024-05-05
「私の信じる神様」
2024-03-03
「なぜ命は大切なのか」
2024-01-07
「アブラハムの旅立ちと神の約束」
2023-12-03
「十字架の死とよみがえりの予告」
2023-09-03
「ペテロ、湖上を歩く ~イエス様に信頼して一歩踏み出した人の奇跡~」
2023-08-06
「信じられない!死海写本について」
2023-05-07
「わたしは良い牧者です」
2023-04-02
「でも、おことばですので」
2023-02-05
「Amazing grace の原詩と翻訳」
2023-01-29
「外国人の女の信仰」
2023-01-01
「ヨハネが紹介する『初めのことば』」
2022-12-04
「神のわざが現れるため」
2022-11-06
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう (マタイ4章19節)」
2022-10-16
「なぜ聖書が信頼できるのか」
2022-09-18
「神の備えとエステルの勇気」
2022-09-04
「イエスはまことのぶどうの木」
2022-08-21
「イエスは「道・真理・いのち」そのものである」
2022-08-07
「会堂司(つかさ)ヤイロについて考える」
2022-07-17
「どちらの人が神の前に「正しい」とされたでしょうか」
2022-07-03
「神様の恵みへの応答」
2022-06-05
「ナザレ人と呼ばれたキリスト」
2022-05-15
「私たちの救い主 キリスト・イエス」
2022-05-01
「イエスさまが十字架に架かられた意味」
2022-04-17
「イエスの復活」
2022-04-03
「『狭い門から入りなさい』とは?」
2022-03-20
「真理に立つ真理に立つ」
2022-03-06
「イエスの郷里訪問と人々の反応」
2022-02-20
「イエスは失われた人を救うために来られた」
2022-02-06
「しかし、イエスは黙っておられた」
2022-01-16
「ルツの決断と神の祝福」
2022-01-02
「ヤイロの娘の蘇生」
2021-12-05
「人間とは?イエスとは?」
2021-11-07
「父なる神さまから認められる道」
2021-10-17
「ゲセツマネで苦しみ祈られたイエス」
2021-10-03
「喜びと感謝の人生」
2021-09-05
「世の光、いのちの光」
2021-08-15
「正気に返った人」
2021-08-01
「科学から考える聖書の神様」
2021-07-18
「ゆるがない平安と喜び」
2021-07-04
「創造主なる神」
2021-06-20
「どんな時にもあなたは愛されている」
2021-06-06
「総督ピラトについて考える -あなたは「真実」に対してどう判断しますか?-」
2021-05-16
「たとえで話されるイエス様」
2021-05-02
「ヨブ記に見る試練の意味」
2021-04-18
「金持ちの青年の話」
2021-04-04
「イエス様に身をまかせて」
2021-03-21
「イエスとは誰か?」
2021-03-07
「幸いの道」
2021-02-07
「1万タラントの負債」
2021-01-17
「初めての罪」
2021-01-03
「多くの病人を癒やされるイエス様」
2020-12-27
「イエスの母、マリア」
2020-12-13
「本当の幸せって何?」
2020-12-06
「あなたを待っていてくださる、イエス・キリスト」
2020-11-29
「イエス・キリストを信じる幸い」
2020-11-15
「ザアカイを変えたキリストの愛」
2020-11-08
「罪と死に勝利された方」
2020-11-01
「もう少しの間」
2020-10-25
「安息日の教えと片手の萎えた人の癒やし」
2020-10-18
「ナアマンの癒し - 神様の声はどこから聞こえるか -」
2020-10-11
「救いをもたらす復活の力」
2020-10-04
「天の御国のたとえ話より『救い』について考える」
2020-09-27
「安心できる人生の土台」
2020-09-20
「まだ間に合う人生の選択」
2020-09-13
「『永遠のいのち』について考える」
2020-09-06
「イエスの時とは?」
2020-08-30
「逆転人生に導かれた女性」
2020-08-23
「空しい生き方からの解放」
2020-08-16
「罪人を招くため」
2020-08-09
「永遠に生きる」
2020-08-02
「神を信じるということ」
2020-07-26
「人の罪と神の愛」
2020-07-19
「真に生きる力」
2020-07-12
「キリストのもとへ」
2020-07-05
「放蕩息子のたとえ」
2020-06-21
「ゆるぎない人生」
2020-06-14
「あなたの罪は赦された」
2020-06-07
「全世界を造られた神がおられる2」
2020-05-31
「全世界を造られた神がおられる」
2020-05-24
「わたしの心だ、きよくなれ」
2020-05-17
「神と共に歩む確かな人生」
2020-05-10
「命がけであなたを愛していてくださる神」

私たちの本来のあるべき姿

2024-11-03

 ワンポイントメッセージをお読みいただきありがとうございます。
毎週開催のバイブルコーヒーアワーでは、最初に賛美歌を歌っています。今日の賛美歌の歌詞をご紹介します。

主イエスの深い愛にふれて 私にも愛が生まれ
主イエスを信じた時から 私に歌が生まれた
いつまでも歌い続けよう 主の愛の広さ深さを
十字架に命を捨てた その愛の大きさを
人知れず悩む心にも 試みにあえぐ時にも
主の愛の不思議な力で 喜びの歌が生まれる
主イエスに全てを委ねて 心に平和が宿り
主イエスと共に歩く身に 喜びの歌が絶えない

 イエス・キリストを信じた者が、神様の愛の懐でいつまでも歌と喜びが溢れる生活が送れる幸いを歌ったものです。私たちは神様によって造られ、その愛の中で永遠に生き続けることこそ本来の姿であると聖書は語ります。

 さて、人はみな自分の居場所を求めていると思います。その居場所こそ神様の愛の懐です。心のふるさと、居場所です。その居場所を無くし、悩み苦しみを抱える人に、多くの人生相談、哲学、宗教が、その悩みに対し解決の道を示します。もちろん、それによって立ち直り希望を持てたと言う人もいます。それはとても良いことです。

 しかし、聖書が私たちに伝えているのは、人がどこから来て、どこに行くのか、そして何のために存在し生きているのか、本来の存在の目的についてです。この地上で生きて過ごす間のことだけでなく、私たちの死後も続く「本来の居場所」について聖書は語るのです。そして、本来の居場所に帰るための方法を聖書は次のように語っています。

 「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子(イエス・キリスト)のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」(コロサイ1:20)

 イエス様は、私たちが受けるべき罪のさばきを身代わりに受け十字架で死んでくださり、また3日目に死を打ち破り復活してくださいました。この救い主を通して私たちは神様のところに帰ることが出来るのです。私たちが、本来いるべき居場所に帰ることが出来る道を用意してくださったのです。

 救い主イエス様を信じ、本来の居場所に帰り私たちの本来のあるべき姿に戻られますように心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


一粒の麦

2024-10-06

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12章24節)

 この言葉は、イエス・キリストが十字架にかかる3日ほど前に言った言葉です。確かに麦はそのままだったら増えることはありません。麦畑の肥沃な地面に蒔かれて生長することでたくさんの麦の穂を実らせることができます。
 ただし、この言葉はイエス・キリストご自身がこの後、ご自分の身に起ころうとしていることを言っています。「一粒の麦」とはキリストのこと、「地に落ちて死ぬ」とはキリストの十字架での死と復活のこと、「豊かな実」とはキリストを信じる多くの人が救われ永遠のいのちを持つことです。
 つまりイエス・キリストの死は、私たちの罪を赦し、滅びから永遠のいのちをもたらすための死だったのです。そして私たちが豊かな実を結び、悔いなく喜んで人間本来の正しい道を歩むことができるようにしてくださるためでありました。
 皆さんは「塩狩峠」(三浦綾子著)という小説をご存じですか? 私は10年以上前になりますが、塩狩峠に行ったことがあります。そこには「長野政雄殉職の地」という顕彰碑がありました。「明治四十二年二月二十八日夜、塩狩峠に於て、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ色を失い騒然となる。時に乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。」と書いてありました。この実話を元にしたのが、小説「塩狩峠」です。小説では永野信夫という名前で登場します。映画にもなりました。
 この小説は、上記の聖書の言葉を中心として書かれています。クリスチャンであった長野氏は、自分の命を投げ出してまで列車を止め、たくさんの乗客の命を救いました。キリストに倣い自分が「一粒の麦」となったのです。聖書とともに、一読をお勧めしたい一冊です。
 私たちが忘れてはならないのは、私たちのために命を投げ出してくださった方、すなわちイエス・キリストです。この方を信じ受け入れ豊かな実を結ばれること(永遠のいのちを持つ者とされること)を心からお勧めします。

上里キリストチャペル
清水 充


イエスの成した「奇跡」から考える ~カナでのイエスの最初の奇跡から~

2024-08-04

 皆様こんにちは。連日の酷暑、どのようにお過ごしですか。私の住んでいる伊勢崎では、7月29日(月)は、日中の気温が摂氏40度を超えました。命の危険を伴う暑さです。是非、皆様も熱中症等にはくれぐれも注意されお過ごし下さい。

 今回は、ヨハネの福音書2章に記されているイエスが成した最初の奇跡から考えていきたいと思います。

 今から約2000年前のことですがイスラエルのガリラヤのカナというところで結婚式がありました。そこに、イエスの母親やイエス、そして弟子たちも招待されていました。

 当時の結婚式は、祝宴が何日も続いたそうです。ところが、その途中にこともあろうに宴会に必要不可欠な葡萄酒がなくなってしまいました。そのことをイエスの母親が知り、イエスに知らせます。するとイエスは給仕の者に、そこに置いてあった6つの水瓶(1つ80ℓから120ℓ程度のもの)に水を満たすように言います。そして、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行かせると最上級の葡萄酒になっていたと言うのです。

 イエスが成したこの奇跡を知らない世話役は、花婿に「みな、初めに良い葡萄酒を出して、酔いが回ったころ悪いものを出すものだが、あなたは良い葡萄酒を今まで取っておきました。」と言うのです。

 ここで一つ私が注目したいのは、イエスの成された奇跡によってできた葡萄酒は人が作るものよりもはるかに優れた品質であったということです。さらに言うなら「神のなさった奇跡のわざは完全であった。」と言うこともできると思います。

 さらにこのことは「人間が救われる」と言う「奇跡」にも当てはまります。

「イエス・キリストを信じることによって人は救われる。」というこの救いの奇跡のわざも同じように完全であるといえるのです。人間の努力や考えによる「救い」には自ずと限界があります。しかし、神が備えてくださった「救い」は完全なものなのです。

 是非、引き続き聖書の話やここに紹介されているメッセージなどをお読みになって、イエスが私たちに提供してくださった「たましいの完全な救い」についてお考えくださるようお勧めいたします。

上里キリストチャペル
市川 忍


聖書が語る罪の本質と解決

2024-07-07

 なぜ教会では、いつも罪について語られるのでしょうか。それは、全ての人が罪の問題を抱えていることが、聖書に明確に記されているからです。日本では、道徳や法律に反する行為が罪とされます。個々の不正な行為が罪と見なされるのです。聖書も不正な行為を罪としていますが、さらに全ての人が持つ、そうした行為を行ってしまう性質自体を罪と呼んでいます。
 歴史的に有名な宣教師パウロは、自分を例にとって罪について語っています。

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。(ローマ人への手紙7章19~21節)

 パウロは、自分が望む善行ではなく、望まない悪行をしてしまう自分の性質に悩みました。彼は人間を、罪という主人に支配された奴隷のようだと述べています。罪を犯すから罪人なのではなく、罪の奴隷であるために罪を犯してしまう、と言うのです。
 聖書における「罪」という言葉の元々の意味は、「的・目標・道を外す」です。したがって罪とは、「神が人に定めた目標を外す生き方」と言えます。神が人に定めた目標は、聖書では「律法」と呼ばれています。律法は神の教え全体を指し、神と人に敬意を払い、愛するための教えです(※マタイの福音書22章37~40節を参照)。つまり罪とは、神と人に敬意を払い愛することから外れた生き方を意味します。神や人に敬意を払わず、自己中心的に生きることは罪であり、私たちをそのようにさせるものが罪なのです。
 ところでパウロは、罪を嘆くだけでなく、罪の解決についても述べて感激の想いを記しています。

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ人への手紙7章24~25節)

 パウロは、全ての人が抱える罪の問題について書きましたが、それはイエス・キリストによる解決があることを伝えるためです。罪のない者として生まれた神の子イエスだけが、罪ある私たちを救うことができるのです。
 教会では、解決方法があるからこそ罪について語ります。イエス・キリストによる罪の解決を知っていただくことを、心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
大塚 歩


私の信じる神様

2024-05-05

 皆さん、こんにちは。
 ある教会で「あなたが持っているイエス・キリストのイメージは、どの聖書のことばから来ていますか?」というアンケートを取ったそうです。回答は、
 〇愛の方(ヨハネ3:16)
 〇柔和で謙遜な方(マタイ11:29)
 〇救い主(使徒6:31)
 〇平和をつくりだす人(マタイ5:9)
など、その人の人生(経験)によって様々な回答がありました。私も全てがその通りと思わされました。

 これを読んで、私はどんな回答をするだろうかと考えてみました。私はクリスチャンとなって40年以上になります。今までの歩みを振り返り、「確かにそうだな」と神様について教えられている聖書個所の一つは、詩篇107篇1節です。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
(注:「主」とは神様のことを指しています)

 この詩篇107篇の中には、4回同じ言葉(文章)が繰り返されています。
この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から救い出された。」という文章です。
4つの苦しんでいる場面とは、
 ①荒野や荒れ地をさまよい、人が住むべき町に至る道が見いだせず、飢えと渇きによって衰え果てているとき
 ②闇と死の陰に置かれ、苦しみの鉄かせに縛られているとき
 ③自分の背きの道のため、咎のために苦しみを受けたとき
 ④船に乗って海に出るとき、大海で商いするとき
ということです。その時に人々が「主に向かって叫ぶ」と、
まっすぐな道に導かれ、かせが打ち砕かれ解放され、滅びの穴から助け出され、波は穏やかになり、望む港に導かれた、と記されています。
 この4つの苦しんでいる場面は、私たちが人生で経験する様々な場面ではないでしょうか。クリスチャンはその時に神様に祈ることができます。そして、神様は私たちとともにいて支えてくださり、静かな港に導いてくださいます。

 私もいろいろな場面で神様がともにいてくださることを教えられてきました。この経験を通し、私の信じる神様は、今も生きて働いてくださっているお方であり、現在を生きる私に寄り添ってくださる神様である、と実感しています。そして、総括した内容が、
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
ということばになります。

あなたも、この素晴らしい神様を信じ、恵みにあずかってください。

上里キリストチャペル
久保 哲


なぜ命は大切なのか

2024-03-03

 なぜ命は大切なのでしょうか。この問いに聖書から答えるために、まず命について考えてみましょう。

神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2章7節)

聖書は、神が宇宙と全ての生き物を造った記事から始まります。最初の人アダムは、神から命を吹き込まれて誕生しました。人の命は神から譲り受けたものであり、偶然の産物ではありません。神から預けられた私達一人一人の命は、等しく尊いのです。

さらに聖書には、人の命には身体的な命と霊的な命があると書かれています。聖書は、この霊的な命を「永遠のいのち」と称し、身体的な命は受胎の瞬間に与えられる一方で、霊的な命はイエスが神であり救い主であることを信じる時に与えられると述べています。そして聖書は、この霊的な命について考えることがさらに大切であると教えているのです。

では、なぜ命は大切なのでしょうか。なぜ永遠のいのちが大切なのでしょうか。「愛を味わうために命は大切である」ということが答えの一つです。
神が世界を創造した時、神は創り出した大空、地球、植物、太陽、動物などを見て、その一つ一つを「良い」と言いました。しかし、一つだけ良くないことがありました。

神である主は言われた。『人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。』」(創世記2章18節)

 神は最初の人アダムを造りましたが、彼が一人だけだった時に神は「良くない」と言いました。どれだけ生活環境が整っていても、一人では孤独なのです。そのため、神はエバを造りました。神は、愛し愛される素晴らしさを味わわせたいので私達に命を与えたのです。なぜなら、神自身が愛に満ち、私達を愛している方だからです。

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)

 イエスは全ての人の代わりとして、十字架に架かって罪の罰を受けて死にました。それは、イエスを救い主と信じる全ての人が罪の裁きから救われて、永遠のいのちを持つためです。イエスの十字架による死は、神が私達を愛していることを明らかにしています。
命があっても愛がなければ喜びがありません。神の愛を知り、神から与えられる命の本当の素晴らしさを味わっていただくことを、心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚 歩


アブラハムの旅立ちと神の約束

2024-01-07

 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」 (創世記12章1-3節)

 これは、今から約4000年前に生まれたアブラム(後にアブラハムと改名)という人物に与えられた神様からの約束です。この「行きなさい」という言葉は、直訳すると、「自分のために行け」となるそうです。つまり、「あなたのためになるから、行きなさい」ということです。しかし、この時、アブラムは75歳、妻のサライも65歳でした。すでに高齢で、子どものいなかったアブラムにとって、いくら全知全能、何でもご存じで、すなわち何でもできる神様だとわかっていたとしても、この約束を信じることは、困難なことだったのではないかと思います。神様が示す地がどんな所で、またそこでどんな生活が待っているか、全くわからないのです。
 現在の私たちが生きている時代も、いつどこで何があるかわかりません。戦争や地震などのニュースを見ると、改めてそのことを実感させられます。「何のために生まれて、何をして生きるのか。」そのことが問われているのではないかと思います。

 ところで、進化論では、この世界は長い時間をかけて、偶然に偶然が重なってできたのだと教えます。そこには、意味も目的もありません。しかし聖書は、この世界を造られた神がおられることを明らかにしています。私たちの人生には、意味があり、生きる目的があるのです。

 アブラハムは、この世界を造られた全知全能なる神様に従うことが最善の道であることがわかっていました。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」というアブラハムに対する神様の約束は、アブラハムの子孫であるイエス・キリストの十字架による神様の一方的な贖いの御業、恵みとして信じる私たちに実現するのです。

 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。(ローマ人への手紙3章23-24節)

 神様は、罪の奴隷となっている私たちをキリストの十字架上での身代わりの死と復活によって救ってくださり、神と共に、愛し、愛される関係の中に入れるようにしてくださいました。そうですから私たちがするべきことは、アブラハムのように、ただ神の約束を受け入れ、従うだけです。ぜひご自分のこととして考えていただければと思います。

上里キリストチャペル
坂藤頌一


十字架の死とよみがえりの予告

2023-12-03

 今日も聖書ワンポイントメッセージをお読みいただきありがとうございます。
 今日は、イエス・キリストが自分にこれから起こること、すなわち「十字架に架けられて、死んで、三日後によみがえる」ということを予告されていたことを見たいと思います。
 聖書マルコの福音書8章31節に、次のように記されています。

「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。イエスはこのことをはっきりと話された。」

 私たちは、自分に起こることを確実に言い当てることはできません。いや、次の瞬間に何が起こるのかも分からないのが私たちの人生です。ましてや私たちが、いつ、どこで、どのようにして死ぬのかは分かりません。

 しかし、イエス・キリストはそのことをはっきりと弟子たちに伝えました。そして聖書を見れば、まさにその予告のとおりに十字架に架けられて死んで、しかも三日後によみがえられたことが歴史の事実として記されています。

 考えてみてください。私たちは、先のことがすべて分かってしまったら、その恐怖に押しつぶされてしまうのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストはここで自分を襲う事実についてはっきりと認識していたことが分かります。そして、その起こることにあらがうことなく、まっすぐにそこに向かわれました。

 私たちを愛し、すべての苦しみを耐え忍ばれたお方こそ、このイエス・キリストです。その愛のゆえに、神の御子である方がこの地上にお生まれになりました。私たちの罪を全部背負い十字架で死んでくださいました。そして、死を打ち破り三日目によみがえられました。

 イエス・キリストの十字架は、神に背を向け滅びへとまっすぐに向かう私たちを救う神の計画であります。私たちが、その救いのメッセージに応答し受け入れ信じるときに永遠のいのちが与えられると聖書ははっきりと語っています。
 聖書ヨハネの福音書3章16節にこのようにあります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 今日この救いがあなたに訪れますようにお祈りいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


ペテロ、湖上を歩く ~イエス様に信頼して一歩踏み出した人の奇跡~

2023-09-03

皆さん、こんにちは。
今回は「イエス様に信頼して一歩踏み出した人の奇跡」というテーマで聖書からお話をさせていただきます。

ところで、皆さんは病気になった時、お医者さんに行きますね。診察してもらい、病気の説明を聞き、治療をします。
その場合、お医者さんのことを信頼して治療をしてもらいます。特に命にかかわる病気であった場合はなおさらです。お医者さんを信頼することはとても大切ではないでしょうか。

聖書に「イエス様に信頼して一歩踏み出した人の奇跡」のことが書かれています。
イスラエルのガリラヤ湖で弟子たちが舟に乗っていた時の出来事です。

向かい風だったので波に悩まされていた。夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところへ行かせてください。」と言った。イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。(マタイ14章24~29節)

ガリラヤ湖は地形の特徴から強風が吹き、湖が荒れることがよくあるようです。弟子たちはこの向かい風と波に悩まされていました。その時イエス様が湖の上を歩いて来たのです。驚きですね。人が湖の上を歩くなどできませんから。彼らは「幽霊だ」と思いました。しかし、ペテロは「本当にイエス様でしたら水の上を歩いて行かせてください。」と言ったのです。イエス様が「来なさい」と言われたので、ペテロはイエス様の命令に従い水の上を歩いたのです。まさに、奇跡がペテロに起きました。

この出来事から、イエス様が言われたことを「信じ一歩踏み出した人に奇跡」が起きたことが分かります。
なぜ、このような出来事が書かれているのでしょうか。

聖書にこのように書かれています。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20章31節)

もしかしたらあなたは今、嵐の中にいるような大変な状況に置かれているかもしれません。しかし、あなたがイエス様を本気で信じる時、あなたは神様のすばらしさ(守り)を体験します。それこそ、まさにイエス様に信頼して一歩踏み出した人に起こる奇跡なのです。

あなたに生きている意味を教え、素晴らしい人生を与えようとしておられるイエス・キリストを信じることを心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


信じられない!死海写本について

2023-08-06

 今回は、「信じられない」ことについてのお話です。これって日々の生活の中でも、結構ありますよね。例えば、連日の大谷翔平選手の活躍。二刀流、投手として9勝、打者としてホームラン、大リーグ1位の40本、まさに「信じられない」ことと言えます。

 ところで、信じられないような「20世紀最大の発見」ってご存知ですか?

 それは、1947年の夏、イスラエルの死海の沿岸の洞窟で発見され、後に「死海写本」と名付けられた一連の文章群の発見でした。まさに「信じられない」発見だったのです。
 羊飼いの少年が、いなくなった羊を探しに崖を登っていました。洞窟があるので羊が落ちたのではないかと思い、石を投げ入れてみると「カーン」と何かに当たる音がしました。降りていって調べてみると、土器の瓶が並んでおり、その中に古い巻物を発見したのです。この後大規模な調査がされ、なんと紀元前1世紀前後の旧約聖書の写本を含む、何千という羊皮紙、牛皮紙の文章が発見されました。
 これらの文章群が「死海文書」として2000年の時を経て、私たちの前に現れたのでした。旧約聖書のほとんどの文章が、特に紀元前700年ごろに書かれたと言われている「イザヤ書」はほぼ完全な形で発見されました。

 ところで、聖書は、活版印刷技術(15世紀)が整う以前はすべて写本でした。そして、この時までの最も古い信頼できる写本は、1008年の「レニングラード写本」だったのです。実は、旧約聖書の中には、「キリストの十字架の預言ではないか」と言われる箇所がいくつも存在します。特に有名なのは、イザヤ書53章です。この箇所は、あまりにもリアルに十字架上の苦しみを表現しているように見えるので、キリスト以降に写本をする筆記者がイザヤ書に手を加えて変えたのではないか、と考える研究者もいたのです。しかし、1008年の「レニングラード写本」とその1000年以上前の「死海写本」との違いは、ほとんどありませんでした。聖書は、正確に写本されてきたのでした。それなので、「聖書を改編した」という議論は、それ以降なくなりました。

 聖書は、2000年以上の時を超えて、私たちに訴えていることがあります。それは、

"聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。"  新約聖書:テモテへの手紙 第二 3章15節

ということです。

 是非、この時期に、聖書を手に取っていただき、また、上里キリストチャペルのBCH(バイブル・コーヒー・アワー)などをお聞きいただいて、「信仰による救い」をご自分のものにしていただけますよう、お祈りいたします。

上里キリストチャペル
市川 忍


わたしは良い牧者です

2023-05-07

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10章11節)

 この言葉は、今から約二千年前、今のイスラエルの地で、イエス・キリストが語った言葉です。牧者とは羊飼いのことです。当時のイスラエル社会では、羊たちは牧者の声を知っていて、牧者は声で牧草地や囲いの中に導いていました。もし、羊たちが自分の所有でなく、日雇いのアルバイトでしたら、オオカミなどの敵が来て身の危険を感じたら逃げてしまうでしょう。でも良い牧者は命がけで、羊たちを守るのです。それは、命を捨てるほどに、羊たちを思っている、愛情を注いでいるということなのです。
 イエス・キリストが自分のことを「良い牧者」と言ったときに何を意味するでしょうか?羊たちとは全ての人種、あらゆる国の人々を指します。全ての人に、いのちを捨てるほどの愛が注がれているのです。では、いのちを捨てるほどの愛とは何でしょうか?イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれ、3日目によみがえってくださったのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)

 まず、神のひとり子であり、神ご自身であるお方、すなわちイエス・キリストの愛を感じ取ってください。私たちの罪のあがないのために十字架で死なれたお方です。それは私たち人間が滅びないで永遠のいのちを持つためであると言っています。この聖書の言葉には条件があります。それは「御子を信じる」ということです。
 では「信じる」の意味を考えたいと思います。次の2つの文を比べてみてください。
・私はUFOを信じる。
・栗山監督は村上選手を信じる。
 上の「信じる」はUFOの存在を信じているということでしょう。しかし、下の文は3月に行われたWBC準決勝の後に、栗山監督が明かした言葉です。そこまでなかなか調子が上がらなかった村上選手を信用していた、信頼していたということです。逆転サヨナラタイムリーヒットの場面を覚えている方が多いでしょう。
 新約聖書はギリシャ語で書かれています。ここで使われている「信じる」のギリシャ語「ピステウォー」は「信頼する、信頼を置く、信仰を持つ」などの意味があります。
 「御子を信じる」ということは、御子キリストに信頼し自分の人生をお任せする、生涯このお方に従っていくことなのです。良き牧者であり、いのちがけで私たち人間を愛してくださったお方に、自分の人生を任せてみませんか?心よりお勧めします。

上里キリストチャペル
清水 充


でも、おことばですので

2023-04-02

今日もワンポイントメッセージをお読みくださりありがとうございます。新年度を迎え新しい歩みをスタートされた方もいらっしゃると思います。新しい歩みが祝福されますようにお祈りいたします。

今日のお話は、ルカの福音書5章に出てくる、イエス様がペテロの舟に乗り、網を下ろして魚を捕りなさい、と言われた記事から考えてみたいと思います。

ペテロは地元の漁師で、いつもこのガリラヤ湖で漁をしていた人です。そんなペテロたちが、夜通し漁をしたのに何一つ捕れず、舟を引き上げて、網を洗い、片付けもようやく終わったところにイエス様が、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と言われました。あなたがペテロの立場だったらいかがでしょうか。

普通に考えれば、ペテロはプロとしてのプライドもあり、漁師の気性もありますから、網を下ろせという指示には従いづらい、つまり断ると思います。

しかし、この時ペテロは、「私たちは夜通し働いて何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と言って、実際に下ろしました。
結果は、応援に来てくれた舟といっしょに、二艘とも沈みそうなほどの大漁でした。

今日のポイントは、「でも、おことばですので」と言って、イエス様のことばに従ってみたことだと思います。

ペテロが、イエス様のことばに素直に従うことができたのは、既にイエス様のうわさを何度も聞いていたことや、この方の話を直接聞く中でこの方に特別な何かを感じ取っていたからだと思います。そして、実際にイエス様のことばに従ってみると、信じられないような奇跡を体験しました。

その大きな奇跡を目の当たりにしたペテロは、きよい神様への恐れを覚え「私は罪深い人間です」と、イエス様の足元にひれ伏しました。そのペテロに対して、イエス様は「今から後、あなたは人間を捕るようになる。」(※人々の救いのために神様のことばを伝える者となることの比喩)と言われ、神様を証しする新しい生き方を示してくださいました。

私たちの人生においても、神様は個人的な呼びかけをしてくださいます。
その時私たちも神様の招きに応じて、「(こんな私)でも、おことばですので」と言って、信仰をもって歩み始めることができたら幸いだと思います。
神様が、新しい人生へと導いてくださいます。

上里キリストチャペル
久保 哲


Amazing grace の原詩と翻訳

2023-02-05

皆さん、こんにちは。
今日は、ジョン・ニュートンが作詞した「Amazing grace」の原詩と、「アメージング・グレース物語」の編訳者である中澤幸夫さんが翻訳した日本語訳を紹介したいと思います。
この英語の原詩と日本語訳は次の本から引用させていただきました。

ジョン・ニュートン著、中澤幸夫編訳『「アメージング・グレース」物語 ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝』(彩流社、2006年発行)

英語に詳しい方は、ぜひ原詩を味わってください。また、すべての方に、ジョン・ニュートンが表したかった「思い」を味わっていただきたいと願います。
 
原詩
1.Amazing grace!(how sweet the sound)
   That saved a wretch like me!
  I once was lost,but now am found
   Was blind,but now I see.

2.’Twas grace that taught my heart to fear,
   And grace those fears relieved;
  How precious did that grace appear,
   The hour I first believed!

3.Through many dangers,toils and snares,
   I have already come;
  ’Tis grace has brought me safe thus far,
   And grace will lead me home.

4.The Lord has promised good to me,
   His word my hope secures;
  He will my shield and portion be,
   As long as life endures.

5.Yes,when this flesh and heart shall fail,
   And mortal life shall cease;
  I shall possess,within the vail,
   A life of joy and peace.

6.The earth shall soon dissolve like snow,
   The sun forebear to shine;
  But God,who called me here below,
   Will be forever mine.


1.アメージング・グレース、(何と甘美なる響き)
   道ならぬ私を救ってくださった。
  かつて迷えし者が、今見出され、
   闇を出でて、光の中にいる。

2.神の恵みが私の心に畏れることを教えてくださり、
   くだんの恐怖も消えた!
  恵みがどれほどありがたく思えたことか、
   初めて祈ったとき。

3.七難八苦、数多(あまた)の誘惑を乗り越え、
   ようやくたどり着いた。
  ここまで無事にこれたのも、神の恵み、
   だから故郷にも連れて行ってくださるだろう。

4.主は私に良きことを約束してくださった、
   主の約束は私の希望の支え、
  主は私の盾と分(ぶん)になってくれるだろう、
   命が続く限りは。

5.そう、この身と心が尽き果て、
   この世の生が終わるとき、
  私が後の世で手に入れるものがあります、
   喜びと平和の生活です。

6.地球は間もなく雪のようにとけ、
   太陽は輝くことをやめるだろう、
  だが、かくも卑しき私に声をかけてくださった神は、
   永久(とわ)に私のものになるだろう。

ジョン・ニュートンはたくさんの讃美歌を作詞し、神様のことを分かりやすく人々に伝えていたそうです。
その中でも特に有名なこの曲ですが、ニュートンは自分を罪深い人間と自覚し、そんな自分がこれほどまでに神様に愛されていたのかと、その感動を詩に表しました。
神様は、私たちにも同じように臨んでくださっています。神様の愛を感じていただけたら幸いです。

上里キリストチャペル
久保 哲


外国人の女の信仰

2023-01-29

 皆さん、こんにちは。今日は、「外国人の女の信仰」というタイトルで、マルコの福音書7:24-30から考えたいと思います。

 この箇所は、イエス様がツロという外国の町に行った時の出来事です。そこに、一人の女の人が駆けつけます。彼女はイエス様の足下にひれ伏して、あるお願いをします。それは「娘から悪霊を追い出して欲しい」という願いでした。このお方ならば、きっと何とかしてくれるに違いないと思ったからです。
 さて、彼女の願いに対するイエス様の答えは意外なものでした。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」と言われてしまいます。つまり、あなたの願いには応えられないということです。なんだか冷たいと思ってしまうかもしれませんが、実はイエス様には、あるお考えがあったのです。それは、彼女の信仰をよりはっきりさせるために、あえて、そのようにおっしゃったのです。
 結果、彼女は卑屈にならず「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」と謙虚な姿勢で願い続けました。その信仰を見てイエス様は、願いを聞かれ娘は癒されました。

 さて、この外国の女の人の信仰から少し考えてみましょう。
彼女の良かった点を4つあげます。
(1)イエス様であれば必ず何とかしてくれるという信仰があった。
(2)娘のために必死に願った。
(3)イエス様のことばに卑屈にならずに願い続けた。
(4)イエス様のことばを素直に信じた。

 いかがでしょうか?
 同じように、イエス様に信頼し、真剣に求めて、素直に受け入れて、一歩進んでみるならば、そこに神様のわざがあなたにも現れます。
 ぜひ、一歩を踏みだし、神様の恵みを体験していただけたらと思います。

 ところで、この女の人はユダヤ人から見れば異邦人(外国人)です。弟子たちにとってイエス様は、ユダヤ人の国を再興してくれる救世主であるという認識にとどまっていました。
 ここでの出来事は、異邦人である女の人の信仰も受け入れられた、すなわちイエス様は、すべての人にとっての救い主であることの布石でもありました。

 聖書の中心メッセージは、イエス様が人の罪のために十字架に架かられて死なれたこと、そして、3日目に死から復活されたことです。
 そして、イエス様による救いは、全人類、ユダヤ人も異邦人も、信じるすべての人に与えられると聖書は言います。

「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」(ローマ3:22)

 あなたにとっての救い主イエス様を心に受け入れてください。心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


ヨハネが紹介する『初めのことば』

2023-01-01

 2023年新年明けましておめでとうございます。
 それぞれ新たな思いで新しい年を迎えられたことと思います。
 さて今日は1月1日、年の最初の日ということで「ヨハネが紹介する『初めのことば』」というテーマで聖書から考えたいと思います。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネの福音書1章1節)

 これは、ヨハネの福音書の冒頭のことばです。
 ヨハネは、実に不思議な書き出しをします。初めてこの書を読まれた方は、「ヨハネはいったい何のことを言っているのだろう」と思われるかもしれません。
 このヨハネという人は、イエス様が特に選ばれた12弟子の中の一人で、いつもイエス様のそば近くでともに行動した人です。そして、12弟子の中で最も長生きで90歳位まで生きて、イエス様のことを伝えた人です。そのヨハネが晩年に彼の人生の集大成としてまとめたのが、このヨハネの福音書であり、その冒頭のことばがこれです。
 つまりヨハネは、「イエス様が力ある神であるお方で神様からのメッセージそのものである」と紹介したのです。
 さらに、ヨハネはこのように続けます。

「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章4-5節)

 ここにある「いのち」とは、私たちがこの地上で持つ肉体のいのちのことではなく、霊的ないのち、すなわち神様と永遠にともに過ごすことのできる「いのち」です。
 ところで皆さんは、真っ暗闇を経験したことはありますか?暗闇には、何も見えないという不安感と恐れがあります。しかし、そこに小さな明かりでもあれば安心できます。
 さて聖書は、私たちを造られた神様を無視して生きている状態のことを暗闇の状態であり、それを「罪」の中にあると言っています。まさに、現代も起きている様々な問題も、この罪の問題が根本にあります。
 その暗闇の中で、自分では造り主の神様に帰る道が分からなくなってしまった私たちに光が差し込みました。それがイエス様です。
 そして、ヨハネは聖書の中でもよく知られている次のことばを紹介します。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

 ぜひ、救い主イエス様を信じて永遠のいのちを得て神様と永遠にともに生きる選択をなさってください。心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


神のわざが現れるため

2022-12-04

 今から約二千年前、イスラエルのエルサレムでの出来事です。

 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネの福音書9章1~3節)

 日本語で「バチが当たる」、「親の因果が子に報い」などという言葉があります。生まれつきの盲人を見た弟子たちの反応は、そんな感じでした。しかし、イエス様の反応は違いました。「この人に神のわざが現れるため」だというのです。では、「神のわざ」とは何なのか考えていきたいと思います。

 イエス様はこの盲人に、唾で泥を作りそれを目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼は言われたとおりに行いました。すると、見えるようになったのです。しかし、この奇跡は「神のわざ」の序章にすぎませんでした。

 さて、この奇跡が行われたのは安息日でした。律法の専門家であり政治的権力もあるパリサイ人に知られました。安息日とは6日間の労働の後、仕事を休んで、神を喜び礼拝するために、神がイスラエルの民に与えられた律法の1つでした。しかし、パリサイ人は過剰に解釈をし、目を治すのは医療行為だ、泥を塗るなんて仕事をしたことだと考えたのです。当時、律法を守らない人たちを罪人と考えました。パリサイ人は目を開けてもらった人に、イエス様のことをどう思うか聞いたのです。彼は「預言者です」と答えました。預言者とは、神様のメッセージを伝える人のことです。その後、両親にも尋問しましたが、埒があかず、もう一度本人に尋問しました。

 当時のユダヤ社会では、イエス様をやたらと支持したり弟子となったりすると、追放される恐れがありましたが、彼はひるむことなく「一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」と宣言しました。これだけは変えることのできない事実でした。さらに「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」と言ったのです。これは、預言者ではなく、天地万物を造られた全知全能の神と等しいお方であると言ったようなものです。

 彼はその後、直接イエス様と会話をし、信じる者となりました。「神のわざ」とは、単なる奇跡だけではなく、その人の心が変えられ、イエスを信じ大胆に証しする者となって行くことも表していました。

 このサイトを見てくださっている皆さんにお勧めします。神が人となってこの地上に来てくださり、私たちの罪のために十字架で死によみがえってくださったお方、すなわちイエス様を信じ受け入れ、主として歩んでくださるよう、心よりお勧めします。

上里キリストチャペル
清水 充


わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう (マタイ4章19節)

2022-11-06

 みなさま、こんにちは。今回は、表題にした上記の聖書の言葉から考えてみたいと思います。
 イエスさまが語られた「わたしについて来なさい」という言葉は単に教えを学ぶためについて来るように、という軽いものではありません。これからの歩みのすべてをわたしにかけ、わたしと行動をともにしなさい、という強い呼びかけなのです。
 イエスさまは彼ら(ペテロ、アンデレ)に「人間をとる漁師にしてあげよう」と語られました。「人間をとる」とは、神さまから迷い出た人を神のもとに連れ戻すという意味があります。
 イエスさまが、召された弟子たちは文字どおりの漁師でした。イエスさまはユーモアを込めて「人間をとる漁師」と言われたのではないでしょうか。この言葉は、神のもとに立ち返る前の人間を、海の中を泳ぐ魚に例えています。魚の住む海は光のとどかない暗やみの世界です。それは神から離れ、背を向けているこの世を象徴しているようです。
 次の20節には「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った」とあります。イエスさまの招きを受けた彼らは、迷ったり考え込んだりしないで「すぐに」従いました。
 ここで言われている「網」とは、漁師にとっては生活の手段であり命でした。従って、網を捨てるとは、いわば自分を捨てて弟子になることだったのです。それは一見、自分のすべてを失ってしまうかのように見えますが、実はそうではありません。自分を捨てることは、結局のところイエスさまを得ることであり、イエスさまが与える約束のすべてを受けることなのです。
 漁師であった彼らは身分としては低く見られていました。当時の知識人であった律法学者やパリサイ人から見れば、学問の無いごく普通の人であったのです。また、「彼らはすぐに」従ったので意志の強い人だったのでしょうか。盲目的であったのでしょうか。決してそうではありませんでした。
 ここに登場したペテロは、イエスさまが捕らえられ裁判に掛けられたとき、恐れてイエスさまなんて知らないと三度も弟子であることを否定したのです。しかし、あらかじめその事を知っておられたイエスさまは「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と語られていたのです。
 十字架で死なれた主イエスさまは、復活した後ペテロを力づけられました。そして、ペテロはこの方こそ「罪と死」から救ってくださる神の御子、救い主であることを力強く証し、立ち返る多くの人を神のもとに連れ戻したのです。

上里キリストチャペル
坂藤省二


なぜ聖書が信頼できるのか

2022-10-16

 今日は、「なぜ聖書が信頼できるのか」について考えてみたいと思います。
 まず、聖書が「聖書」として認められた時期ですが、紀元前4世紀頃、旧約聖書の39巻は、ユダヤ人の間で神の言葉(すなわち聖書)として認識されていたようです。公式には、紀元90年にヤブネ会議で認定されています。新約聖書の27巻は、紀元397年のカルタゴ会議等で認定されました。このことは、歴史学において確認することができます。

 次に、この聖書の記述の正確さについて考えてみましょう。1947年、死海の近くの洞窟から壺に入った沢山の古文書が見つかりました。20世紀最大の考古学的発見と言われる「死海文書」の発見です。死海文書は、紀元70年頃に使われていた旧約聖書の写本を含む様々な文書です。その中に旧約聖書の書簡の一つであるイザヤ書が完全な形で残っていました。当時、最も古い旧約聖書の写本は紀元10世紀頃のレニングラード写本でしたが、聖書に否定的な人達の中には、聖書はキリスト教徒が布教のために意図的に編纂してきたものであると主張する人がいました。しかし、レニングラード写本と死海写本のイザヤ書を比べてみた結果、単語の綴りの不一致が僅かにあっただけで、意味の不一致は皆無だったのです。これにより、私達が手にしているイザヤ書と、1000年前、2000年前のイザヤ書がほぼ完全に同じであることが考古学的事実となりました。これは驚くべきことではないでしょうか。

 また、聖書の正確さを確かめるには、写本の数や古さも重要です。2000年前は日本の弥生時代です。当時の世界には本が限られていましたし、写本も殆ど存在しません。その僅かな写本の中に、古代史の一級資料として信頼されているガリア戦記(カエサル著)とローマ建国史(リウィウス著)があります。これらの最古の写本は紀元9世紀のもので、写本の数は20以下です。一方、旧約聖書の最古の写本は紀元1世紀、新約聖書の最古の写本は紀元4世紀のもので、写本の数は旧約聖書と新約聖書を併せれば13000以上あります。聖書の写本は、古さにおいても数においても類を見ないほど圧倒的なのです。

 「なぜ聖書が信頼できるのか」それは、聖書が数千年に亘って正確に保存され、多くの人に読まれてきたという歴史的事実が裏付ける通り、聖書が全ての時代に生きる全ての人に通用する書物であるからです。そして、この聖書が私たちに伝えるメッセージの中心は、イエス・キリストによる罪の赦しと永遠のいのちがあるということです。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたし(イエス)について証ししているものです。」(ヨハネの福音書5章39節)

是非、聖書を通して真の神であるイエス・キリストを知っていただきたいと思います。

上里キリストチャペル
大塚 歩


神の備えとエステルの勇気

2022-09-18

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)

 旧約聖書のエステル記をみると、神が確かに様々なことの背後に働いておられるということがよく分かります。エステル記の舞台となっているのは、ペルシア帝国です。
 クセルクセス王(紀元前486年~)はペルシア帝国の指導者たちを招いて宴会を催し、王妃ワシュティを招きます。ところが、王妃はその命令を拒み、失脚させられるという出来事がありました。そのため、国中から美しい女性が集められ、新しく王妃を選ぶことになったのです。そこで選ばれたのが、親戚のモルデカイに育てられたエステルというユダヤ人の女性でした。
 ある時、王の寵臣ハマンは、王国に住む全ユダヤ人の虐殺を企み、王の勅令として王国中に布告しました。ユダヤ人絶滅の危機を知らされたモルデカイは、王が勅令を取り消すよう取り計らってほしいと王妃エステルを説得します。「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」(エステル記4章14節)という言葉を聞き、神から与えられた使命に気づいたエステルは、王の指名がなければ王に面会できないという法令を犯し、死を覚悟して王の前に立ち、ユダヤ人虐殺計画を止めるができました。そこには、エステルの「死ななければならないのでしたら死にます。」という神への信仰による応答がありました。

 私たちは、先行きが不透明で将来の予測が難しい世界において、不安に押しつぶされそうになったり、後悔にさいなまれたりしてしまうこともあります。しかし、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たち」、つまり、神を信じる者には希望があります。それは、「すべてのことがともに働いて益となる」ということです。私たちにはその意味や目的は分からないかもしれませんが、その一つひとつに神が働いておられ、失敗さえも益としてくださるということに希望を見出すのです。この益というのは、私たちがお金持ちになるとか、偉くなるとか、そういうことではありません。神は、目には見えませんけれども、確かにこの世界に存在しており、すべての人が天国において神と共に永遠に生きることができるように、益となる救いのご計画を実行しておられます。その救いとは神がこの世に遣わした救い主イエス様を信じることです。ぜひ神に応答し、その救いに与っていただければと思います。

上里キリストチャペル
坂藤頌一


イエスは「道・真理・いのち」そのものである

2022-09-04

皆さん、こんにちは。聖書ワンポイントメッセージをお読みくださり有難うございます。
本日は「イエスはまことのぶどうの木」というテーマで聖書からお話をさせて頂きます。

今スーパーマーケットに出かけると青果売り場に「ぶどう」が売られています。とても美味しそうで買いたくなりますね。ぶどうは7月から9月が旬です。この時期に神様が造られたぶどうを堪能してください。私は種の無いシャインマスカットなどが好きです。

さて、皆さんはぶどうの種類がどのくらいあるのかご存知でしょうか。
ぶどうの品種はとても多く、世界には10000種以上が存在するといわれます。このうち日本ではマイナーな品種を入れると100種類以上があり、主な品種で50~60種類ほどが栽培されているそうです。

イエス様がいたイスラエルの国でもぶどうが沢山栽培されていました。オリーブやイチジクとともにぶどうの栽培が気候に適し、特にぶどう酒を製造するために盛んに栽培されていました。
聖書には、イエス様がぶどうについて話されたことがたくさん出て来ます。
たとえば、カナの婚礼でイエス様が水がめの水をぶどう酒に変えられた奇跡、古い皮袋には古いぶどう酒を、新しい皮袋には新しいぶどう酒を入れる譬えの話し、また、ぶどう園の話やぶどう畑の話もされました。当時の人々にはぶどうは大変身近な存在でしたので、ぶどうを例に用いた話は、人々の関心が向き理解しやすい事であったと思います。

イエス様がこのように言われました。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネの福音書15章5節)
わたしとはイエス・キリストのことです。そして、枝とは私たちのことを指しています。ぶどうの実は枝が幹にしっかり繋がって必要な養分を受けて、はじめて実をつけることが出来ます。私たちはもともと神様と共に生きるように造られていましたが、神様を忘れ自分勝手に生きるようになってしまいました。本来あるべき神様との正しい関係になっていません。イエス様は身近な「ぶどう」を使って、イエス(神)様と私たちの関係を教えてくださったのです。イエス(神)様を抜きにして私たちは何もできず多くの実を結ぶことはできないのです。

イエス様は私たちに正しいあるべき関係を教えてくださいました。どうぞ、イエス様としっかり繋がり人として多くの実を結んでいただきたいと願います。方法は簡単です。「イエス様を救い主と信じ受け入れる」だけです。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


イエスは「道・真理・いのち」そのものである

2022-08-21

皆さん、こんにちは。聖書ワンポイントメッセージをお読みくださり有難うございます。
今回は「イエスは『道・真理・いのち』そのものである」というテーマで聖書からお話をさせて頂きます。

今年の4月から小学校1年生になった孫が先日我が家に来ました。今までは保育園で遊び中心で1日を過ごしましたが、学校では勉強中心で1日を過ごします。孫に勉強のことを聞きましたら「好きじゃない」との答えでした。

皆さんは勉強が好きだったでしょうか。私は勉強より、給食や体育の時間が好きでした。勉強はとても大変で、覚えることが山ほどあり、いつも悩まされていました。勉強していると「何でこんなに勉強しなければいけないのか」と思っていました。先生に聞くと、「大人になって必要なんだよ。良い学校に行き、良い仕事に就くためだよ。」と言われました。皆さんはどうでしたか。

また、ある時、生徒が先生にこんな質問をしたそうです。「私たちは何のために生きるんですか。人生は何の目的があるのですか。」その質問にきちんと回答できる先生はほとんどいないのではないのでしょうか。なぜならば、先生も分からないからです。多くの人々は毎日仕事に追いまくられています。退職した方の中には毎日何をして過ごしたらいいのか分からず退屈な日々を送っている人もいます。また、ある人は病にかかり苦しんでいます。大変な事ばかり起こり人生に失望している人もいます。生きる意味は何なのか考えさせられます。

私は高校生の時に「人は何のために生きるのか」悩んでいました。考えても分かりませんでした。これから大人になり、結婚をして子供が生まれ家庭ができ、やがて中年になり、老人となって死んで行く。そう考えると人生って空しいと思いました。しかし、「そんなはずはない。何か意味や目的があるのでないか。」と。

 そんな中、高校3年生の時に聖書の言葉に出会いました。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネの福音書14章6節) イエス様はご自分を「道・真理・いのち」と言われました。私たちが何のために生き、どこへ向かって歩むのかを導き教えてくださるのがイエス様なのです。真理とは、偽り、過ち、間違いの全くないことを指します。イエス様の言葉は変わることのない真理です。そして、霊的ないのちと永遠のいのちを与えてくださるのがイエス様です。

イエス様に出会い信じた時に、本当にイエス様は「道であり、真理であり、いのち」そのものであることが分かりました。あなたもイエス様を信じてみませんか。イエス様は偽りを言いません。真実のことを私たちに語っています。勇気を出し決断してください。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


会堂司(つかさ)ヤイロについて考える

2022-08-07

 いつもこの文章を読んでくださっている皆様、こんにちは。今回は、新約聖書(マルコの福音書5章21節~43節)の中に出てくる会堂司ヤイロについてお話しします。

 会堂司とは、その地域の会堂を管理するとともにその地域の名士でもありました。ところで、そのヤイロには12歳になる一人娘がいました。ところが、その最愛の娘が重い病気になってしまいました。彼は「イエスなら」と思い、自ら出かけ、ガリラヤ湖のほとりで会うことが出来ました。そこで「娘が死にかけています。救われて生きられるようにおいでください。」と懇願します。イエスは承諾し彼の家に向かうのですが、その途中に出会った婦人の病気を治している最中に家からの伝令が「お嬢さんは亡くなりました。」と告げるのです。
 ヤイロの気持ちはどんなだったでしょうか。「娘の最後に立ち会えなかった。やはり、自分が来るべきではなかった。」と後悔したでしょうか。皆さんが同じ立場であれば、喪失感と後悔の念がやはり渦巻くでしょうか。しかし、イエスは「恐れないで、ただ信じていなさい。」とヤイロを励ますのです。そこで、娘の「死」に対してヤイロは「この方にかけてみよう。」と思ったのではないかと思います。
 ヤイロの家に着くと、もう人々は大声で泣いたり、わめいたり、大騒ぎでした。それでも、イエスは「その子は死んだのではありません。眠っているのです。」と言うのです。それを聞いた人々はイエスをあざわらいました。「馬鹿なことを言う人だ。」と言うわけです。結果はどうなったかと言いますと、イエスは「少女よ。起きなさい。」と言って、娘を死から蘇らせたのです。ヤイロをはじめ、そこにいた人々は、どんなに驚き、また、喜んだことでしょう。

 この話は、新約聖書の中に出てくる三つある「死からの蘇り」の記事の一つです。
このことから、イエスにとっては、「死」も「眠り」のあたかも同じ線上にあることのように思われます。聖書の中に「この方(イエス)に信頼する者は、誰も失望させられることはない。」(ローマ書10章11節)とあります。
あなたも、死さえも超越されるこの方(イエス)にヤイロがしたのと同じように、信頼して(信じて)みませんか。心よりお勧めいたします。

上里キリストチャペル
市川 忍


どちらの人が神の前に「正しい」とされたでしょうか

2022-07-17

 いつもこの文章を読んでくださっている皆様、こんにちは。今回は、新約聖書(ルカの福音書18章9節~14節)の中に出てくる「二人の人」についてお話しします。

 この話に出てくる一人、「パリサイ人」とは、ユダヤの律法にも精通し、自分こそ神の前に正しく生きていると自認している人です。次の「取税人」とは住民から徴税し、支配者であるローマ帝国にその税金を納めるととともに私服も肥やしていた人であり、民衆からは非常に反感を持たれていました。

 さて、祈るために神殿に上って来たパリサイ人は、心の中でこんな祈りをしました。
『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
なんと立派な態度、行動でしょうか。不正をせず、週二度の断食、さらに収入の10%を神に献金しているというのです。皆さんも立派な人だと思いませんか。
一方取税人はというと「目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』」と祈るのです。

 皆さんは、どちらの人が、神の前に「正しい」とされたと考えるでしょうか。
聖書は、この取税人の方だった、というのです。実は、この話は、「自分を正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」に対してイエスが語られたたとえ話なのです。

 それでは、この話からどんなことが教えられるのでしょうか。
いろいろあると思いますが、一つには、私たちは、自分の良さ、実績などを神の前に広げて神に受け入れられようとしますが、そんなことは必要ない、いやむしろ無駄なことだというのです。神の「正義、真実」の前に、私たち全てが「罪人」に過ぎないということなのです。そして、私たちにできることは、ただひとつ「神様、罪人の私をあわれんでください。」と祈り、唯一の救い主イエスに信頼するだけなのです。
 あなたも、神の前に出るのは、自分が「もう少し、良い行動ができるようになったら」「もう少し清くなったら」と考えずに、この取税人のように、そのままで、神の前に出て、祈ることです。あなたの決断に期待しています。

上里キリストチャペル
市川 忍


神様の恵みへの応答

2022-07-03

 皆様こんにちは。
 短い期間で梅雨が終わってしまい、急に猛暑の日々となってしまいました。体調管理にお気をつけください。

 今日は、ルカの福音書17章11節~19節までの記事を見たいと思います。
ツァラアトという病気に冒されていた10人の人が、イエス様によって癒やされたのですが、他国人の1人だけがイエス様のところに御礼を言うために戻ってきて、他の9人はそのまま帰ってしまった、という内容です。

 ツァラアトとは、何らかの原因により、人体や家の壁などの表面が冒され、伝染するものです。昔の映画の「ベンハー」にも描かれていました。ツァラアトに冒されてしまった人は、社会から隔離され、誰かと出会う時には自ら、「私はけがれています」と叫ばなければいけないと定められていました。

 イエス様がある村に入られた時に、ツァラアトに冒された10人の人が遠く離れたところに立ち、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と声を張り上げました。イエス様はこれを見て「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」と言われました。彼らは行く途中できよめられました。

 その時、1人のサマリア人は自分が癒やされたことが分かると、祭司のところへ行く道を引き返し、イエス様の足元にひれ伏して感謝しました。イエス様は「他の9人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻ってきた者はいなかったのか。」と言われ、その人には「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。イエス様は、途中から戻ってきたこの人をとても喜びました。この人は自分に与えられた神様の恵みの素晴らしさに驚き、こんな自分に心をとめ、寄り添い、特別に扱ってくださった方に感謝を伝えるために戻ったのでした。肉体の癒やしは10人が経験しましたが、イエス様との深い交わりを味わえたのは1人だけでした。

 私たちの周りにも、神様の恵みが満ち溢れています。多くの人はその恵みを当然のことのように受け取り、感謝もありません。
 今日、このサマリア人のように、自分に与えられている神様の恵みをしっかりと認識し、神様を信じ感謝をささげる者になってみませんか。

 聖書が伝える救いとは、罪や裁きから救われるということだけではなく、神様を覚え、神様を礼拝し、神様を賛美する、そのような霊的な祝福に与ることができるということまで含まれるものです。

 皆様に神様の祝福がございますように。

上里キリストチャペル
久保 哲


ナザレ人と呼ばれたキリスト

2022-06-05

今回は「ナザレ人と呼ばれたキリスト」について考えてみたいと思います。日本人にはまったく、なじみのないことばですが、その意味するところを考えてみたいと思います。

マタイの福音書2章23節にこのように書かれています。
「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『彼(イエス)はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった。」
 実は「ナザレ」という町の名は旧約聖書には一度も名前が出てこないような、全く人に知られない、当時で人口二、三百人の小さな村です。イスラエルの北方、ガリラヤ地方にあった村ですが、その地方自体が「異邦人のガリラヤ」と言われて軽蔑されていました。 
イエスさまが「ナザレ人」と呼ばれることは決して名誉なことではなく、むしろ軽蔑されることを意味していました。イエスさまを信じる前ですが弟子の一人、ナタナエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう」とヨハネ1章46節で言っています。これは一般の民衆が持っていた率直な気持ちです。
 したがって、イエスさまが「ナザレ人と呼ばれる」ということは、彼が人々からメシヤ(救い主)としてあがめられるよりも、むしろ軽蔑され、拒絶されることを意味していたのです。
 「これは預言者たち通して…‥語られたことが成就するためであった」とマタイは述べています。マタイは特定の預言者の名をあげていませんが、それはこのとおりのことば(ナザレ)を語っている預言者がいないからです。
 むしろ彼は、イザヤ書53章3節に「彼(イエス)は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」や詩篇22篇6~7節などの内容から、イエスさまがナザレ人と呼ばれて軽蔑されることが救い主に対する預言の成就であると見たのでしょう。

 では、預言の通りに蔑まれ、拒絶されて十字架に架かられたイエスさまが、なぜ「救い主」なのでしょう。神が死者の中からよみがえらされたからなのです。
使徒4章10,12節にこのように書かれています。
「皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
イエスさまをご自分の救い主と信じ「救い」を得ていただくことを心からお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


私たちの救い主 キリスト・イエス

2022-05-15

皆様こんにちは。
いつもこのページをご覧いただきありがとうございます。
2022年もあっという間に5月になってしまいました。本当に早いですね。

今日は、Ⅱテモテ1章9~10節を見たいと思います。
「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。」
この箇所には、聖書のエッセンスが要約されていると思います。少しずつ確認したいと思います。

  1. 神は私たちを救ってくださった。
    何から救ってくださったのでしょうか。聖書全体の記述では、「苦悩から」「神の怒りから」「よみの深みから」「暗闇の力から」などと記されています。精神的な悩みや、神の怒り(神の裁き)からも救ってくださいました。よみの深み・暗闇の力とは、神様に敵対するサタンによる暗闇の支配の中から救い出されたことを語っています。

  2. 聖なる招きをもって召してくださった。
    私たちを、神様の聖さに与るものとして召してくださいました。気休め的なことば掛けではなく、天地万物を創造された神様御自身が直接、私たちを召してくださいました。

  3. それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。
    私たちが何も行っていない時に、神様が私たちの救いや聖なる招きを、前もって計画されていました。何かの働きに対する報酬ではなくて、恵みとして与えられるものです。

  4. この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。
    罪を犯してしまった人間を贖うために、イエス様がその代価を十字架によって払ってくださいました。
    永遠の昔に計画された私たちの救いは、イエス様を通して明らかに示されました。

  5. キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。
    「死を滅ぼす」とは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔を滅ぼしたということです。
    「いのち」とは、 永遠のいのち、新しいいのちのことで、神様との交わりの回復を示しています。
    「不滅」とは、信じた者が滅びることは決してないということです。
    このことばは、私たちに救いの確信を与えてくれます。

聖書のことばを通して、神様の大きな愛と恵みを覚え、救いの確信を得てください。
心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
久保 哲


イエスさまが十字架に架かられた意味

2022-05-01

 いつもこのページをご覧いただきありがとうございます。
聖書には「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かってい ないのです」(ルカ 23 章 34 節 )とイエスさまが十字架の上で語られたことばが書かれて います。
 あなたは自分が何のために生まれてきたか考えたことがありますか。私はこのことばを読んだ時こころに訴えるものがありました。まだ、十九、二十歳のときでした。私は、自分が何のために生まれてきたのか分かっていなかったのです。
しかし、イエスさまは、「ご自分が何のために生まれてきたか」「なぜ、十字架に架けられなければならなかったのか」が分かっていたのです。十字架上での激しい苦しみの中で、そして、それを見てののしりあざけっている人々の中でイエスさまはその意味を知っていました。
 実は、その700年ほど前に、預言者イザヤは、次のように預言しています。
「彼(イエスさま)が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼(イエスさま)は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ53章1 2節)
また11節では「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う」と述べられています。つまり、イエスさまは、多くの人の罪を負い、その知識によって多くの人を義とするために、ご自身が十字架に架ることを知っておられて、背いた者たちのために、とりなしをしておられたのです。この「知識」は神さまから出た事でした。
同じく10節で、「しかし、彼を砕いて病(罪)を負わせることは、主(神)のみこころ(思い)であった。彼が自分のいのちを代償のささげ物(十字架の身代わりの死をとげること)とするな ら、末長く子孫を見ることができ、主(神)のみこころは彼によって成し遂げられる。」とも述べられています。
イエスさまが「父よ」と呼びかけている「主」すなわち神さまは、彼(イエスさま)を砕いて病(罪) を負わせることをよしとされたのでした。そして、そのみこころ(思い)は、彼(イエスさま) によって成し遂げられたのです。それは、計り知れない神さまの愛から出た事でした。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世(私たち)を愛された。それは御子(イエスさま)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3 章16節)とあります.
この神さまを信じ、イエスさまをご自分の救い主と信じ「救い」を得ていただくことを心か らお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


イエスの復活

2022-04-17

皆さん、こんにちは。今回は「イエスの復活」について聖書からお話をさせて頂きます。

皆さんは、4月17日「今日は何の日」かご存知でしょうか?
例 なすび記念日
【よ(4)い(1)な(7)す】の語呂合わせと、茄子が好物だったとされる徳川家康の命日にちなんで、冬春なす主産県協議会が4月17日に記念日を制定したそうです。日本人は語呂合わせが好きですね。
■教会ではイースターの日になります。(毎年日にちは変わります)日本語訳では「復活祭」と言います。
イエスの降誕をお祝いするクリスマスと同様に意味のある大切な行事です。皆さんは、イエス・キリストが十字架にかけられて処刑されたことは知っていると思いますが、実は処刑後にイエス・キリストは復活したのです。このイエス・キリストの復活をお祝いするのが、イースターという行事です。
なぜ復活は大切なのでしょうか。聖書にはこのように書かれています。
「私はあなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪の為に死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」(第一コリント15章3~4節)

聖書は、イエス・キリストの十字架と復活は最も大切なことだと語っています。

  1. イエス・キリストが十字架について死なれたのは、自分の罪のために死なれたのでもなく、殉教者として死なれたのでもないのです。「私たち人間の罪のために死なれた」のです。人には罪があります。また罪の結果として死が全ての人にあり、死後に神の裁きがあるのです。イエス・キリストはそんな私たちを罪から救うために、この地上に来られ、罪ある私たちの身代わりとなり、十字架にかかって死なれたのです。
  2. イエス・キリストは三日目によみがえられました。仮死状態ではなかったのです。完全に死んだイエス・キリストがよみがえったのです。そして聖書はそのことが事実であることとして証拠を示しています。その一つの証拠として、よみがえったイエス・キリストに出会った人が何百人もいたのです。よみがえることなど、普通に考えると無い事ですが、事実としてあった出来事です。なぜでしょうか。どんな意味があるのでしょうか。イエス・キリストは死を打ち破り、私たちに勝利を与えたのです。また、聖書に書かれていることが真実であることを証明したのです。今まで多くの偉人がいましたが、全て死にました。しかし、イエス・キリストだけが死からよみがえったお方なのです。

死を打ち破り今も生きており、あなたに生きている意味を教え、素晴らしい人生を与えようとしておられるイエス・キリストを知っていただきたいと切に願いお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


「狭い門から入りなさい」とは?

2022-04-03

 皆様こんにちは。
 いつもこのページをご覧いただきありがとうございます。
春になって、たくさんの花が一斉に美しい姿を見せてくれるようになりました。神様の創造の御業の偉大さを感じられます。

 さて、「狭い門から入りなさい」という言葉は、聖書に書かれている有名な言葉です。多くの方がご存知なのではないでしょうか。今日は、この言葉が直接書かれている個所ではないのですが、3つの聖書記事から「狭い門から入る」とはどういうことなのかを考えてみたいと思います。

(1) ルカ7:36~50
 ここでは宗教に熱心なパリサイ派の男性シモンと、町の人からも罪深い人と呼ばれていた一人の女性がイエス様と出会っている場面が描かれています。イエス様はこの女性が自分の罪深さを認め、イエス様のもとに哀れみを求めて来たときに彼女を受け入れてくださり、「あなたの罪は赦されています」と声をかけてくださいました。
この箇所から、「狭い門から入る」とは、自分の罪深さを認めイエス様に哀れみを求める姿勢を指していると思います。

(2) ルカ8:4~15
 ここでは種蒔きのたとえが語られています。4種類の場所に落ちた種について語られました。
1つ目は、道端に落ちた種です。みことば(聖書のことば)を聞いても、悪魔がその種を取り去ってしまう人を指しています。
2つ目は、岩の上に落ちた種です。みことばを聞いた時は喜んで聞きますが、根がないので、自分に不都合な状況になると身を引いてしまう人です。
3つ目は、茨の真ん中に落ちた種です。みことばを聞いたのですが、思い煩いや、富や快楽でふさがれて、実が熟するまでにならない人です。
4つ目は、良い地に落ちた種です。立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結ぶ人です。
この箇所から、「狭い門に入る」とは、みことばをしっかり守り、みことばから霊的な栄養分を十分に摂取し、いのちに至る実を結ばせる人を指していると思います。

(3) ルカ8:43~48
 ここでは12年間長血を患っていた女性が、イエス様の衣の房に触れた時に、その病が治った出来事が記されています。イエス様は、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われました。大勢の人が押し囲んでいましたので、誰がさわったか特定はできない状況です。しかし、「多くの人の手」と「意思を持って触った一人の手」には明確な違いがありました。この女性は自分の病気に他人を巻き込んでしまうことは申し訳ないと思いながらも、今ここでイエス様に助けていただかなければ治ることができないと、決心して衣の房を触りました。
この箇所から、「狭い門に入る」とは、決心して行動する姿勢を指していると思います。

まとめ
 狭く、細く、見いだせる人もわずかだと言われる、「いのちに至る門」ですが、求める人には、神様は喜んで入らせてくださいます。
(1) 自分の罪深さを認めて、イエス様に哀れみ(罪の赦し)を求めましょう。
(2) みことばをしっかり守り、自分の人生に適用して歩みましょう。
(3) 決心して行動しましょう。
 イエス様はあなたに「いのち」を与えるために近づいてくださっています。自分の目と心で狭い門を見出し、そこから入ってください。心よりお勧めいたします。

上里キリストチャペル
久保 哲


真理に立つ

2022-03-20

 聖書ワンポイントメッセージのページにアクセスしていただきありがとうございます。 コロナ、戦争、地震など暗いニュースが続いています。先の見えない昨今ですが、今回は「真理に立つ」というタイトルでお話しします。

 「真理とは何か?」皆さんは考えたことがありますか。「真理」という言葉を国語辞典で調べてみました。「①正しい道理 ②その物事に関して例外なく当てはまり、それ以外にはないとされる知識、判断」(新明解国語辞典・三省堂・第4版)とありました。
聖書にこんな言葉があります。

「このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。」(ヨハネの福音書8章45節)

これは、今から約二千年前、イエス・キリストがユダヤの指導的な立場の人たちに言った言葉です。当時、口先だけで偽善的な指導者がいました。かなり厳しい言葉で彼らを戒めたのです。しかし、よく考えてみると、私自身も偽善者であることに気付かされました。人を憎んだり妬んだり淫らなことを思ったりすることがあるからです。もし心の中を動画にしてYouTubeにアップされたら恥ずかしくて外に出られません。人間は罪があることを自覚しなければ、キリストの言葉はピンとこないかもしれません。「真理」はキリストのうちにあるからです。自分は罪人であることを認めたくない、真理を語るキリストの言葉に耳を傾けたくないのです。

 ではどうすれば良いのでしょうか?聖書の教えを伝えるある伝道者が、この言葉がきっかけで「イエスは神だ」と考え、信仰を持ったそうです。イエス・キリストこそ、創造主なる神から遣わされたひとり子であり、神ご自身であるお方なのです。神は聖なるお方であり、一点の罪も赦すことのできないお方です。しかし、ひとり子なるお方を私たちの身代わりに十字架で裁くことによって、私たちに救いの道を開いてくださったのです。

「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4章12節)

「真理」とは「それ以外にはないとされる知識、判断」とあるように排他的かもしれません。周りの人たちに何と言われても、自分の罪を認めキリストを信じ、真理に立って歩むべきなのです。

「わたし(キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書14章6節)

 どうかキリストの中に「真理」を見いだし、本当の意味での幸いな人生を送られるよう心からお勧めします。

上里キリストチャペル
清水 充


イエスの郷里訪問と人々の反応

2022-03-06

 ワンポイントメッセージをお読みいただきありがとうございます。
今日は、聖書マルコの福音書6章1節から13節の記事から考えてみたいと思います。

 イエス様が郷里のナザレを訪問し会堂で聖書から話をしていると、人々は「この人は、こういうことをどこから得たのだろう」(マルコ6:2)と大変驚きました。そして続けて「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ・・の兄ではないか。その妹たちも、ここに一緒にいるではないか」(マルコ6:3)と言いました。つまり「この男は大工で俺たちと同じ普通の人だろ」と、イエス様の教えのすばらしいことは認めつつも、イエス様が神であること、メシア(救い主)であることは認めることは出来ず、イエス様に「つまずいてしまった」とあります。
イエス様は郷里の人たちの不信仰に驚かれ郷里を後にし、別の村々を巡って教えられました。

 郷里の人々は、なぜイエス様につまずき、受け入れられなかったのでしょうか。
それは、人間的な目線でイエス様を見ていたからだと思います。「そんなの常識では考えられない」という考え方です。彼らからしてみれば、イエス様は「ついこの間まで、一緒に暮らしていた、ごく普通の人」でした。「メシアだ、預言者だと騒がれているが、そんなはずはない!」と決めつけていたのです。

 さて、多くの人が聖書の記述の中で、つまずいている記事が、「処女降誕」と「イエス様の復活」です。神の存在やイエス・キリストの十字架は分かるが、「処女降誕」「イエス・キリストの復活」だけは信じられないという人がとても多いのです。

 なぜでしょうか。人間的な目線で見ているからです。常識で考えて、あり得ないと判断してしまうからです。私たちは、自分の知識の範囲で、自分自身の常識に当てはめてしまい、真実が見えなくなってしまうことがあるのではないでしょうか。

 しかし、聖書ははっきりとこれを事実として教えています。イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれたこと、3日目によみがえられたこと、イエス様を信じ受け入れるならば永遠のいのちが与えられるということです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 私たちのために、事実、死んで復活された救い主を信じ受け入れてくださいますよう心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


イエスは失われた人を救うために来られた

2022-02-20

皆さん、こんにちは。今回は「イエスは失われた人を救うために来られた」というテーマで聖書からお話をさせて頂きます。

皆さんは、探し物をしたことがあると思います。歳を取るとその頻度が多くなるようです。私も例外ではありません。探し物をして見つかるとうれしいものですね。特にどうしてもなくてはならない物はなおさらです。見つかった時は飛び上がるほど喜ぶのではないでしょうか。しかし、いつも見つかるとは限りません。探しても探しても見つからない時があります。見つからないから、仕方がない諦めるかと割り切れば良いのですが、諦められないものもあります。

聖書にイエス様がとても大切なモノを探している出来事が書かれています。それは、物ではなく人でした。皆さんの家族で一人いなくなったらどうするでしょうか。必死に探すのではないでしょうか、何時間も、何日も、何か月も、そして何年でも見つかるまで探すのではないですか。諦められないのです。それは、とても大切だからです。なくてはならない宝物だからなのです。

イエス様は多くの町や村で評判になっていました。どこへ行ってもイエス様の周りには多くの人々が集まって来ました。ある時、イスラエルのエリコと言う町にイエス様が来られました。当然多くの人々が一目イエス様を見ようと集まって来たのです。そこにザアカイと言う人もイエス様を一目みようと思っていましたが、彼は背が低かったので見られませんでした。しかも彼は税金の取り立てをしていて人々からは大変嫌われていました。税金を正当より多く取り立て自分のふところに入れていたからです。見ようとすればするほど、人々の堅い垣根で見ることが出来ませんでした。彼はとっさに木があることに気づき、急いでその木に登りました。そうすると、ちょうどそこにイエス様が通り過ぎようとしておられ、ザアカイを見上げ声をかけられたのです。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)
イエス様とザアカイは初対面でしたが、イエス様はザアカイを知っておられました。ザアカイが孤独で満たされていない日々を送っていたのを知っていたのです。ザアカイは神の前に失われた存在だったのです。
イエス様は言われました。「人の子(イエス)は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)
あなたは今生きています。そのあなたに命を与え必要なモノを与えておられる神がいるのです。
あなたも神の前に失われた存在であると聖書は語ります。

イエス様はそのあなたを捜して救うために来られたのです。
どうぞ、あなたもこのイエス様を知り、信じ迎え入れませんか。失われた状態から回復し、幸いな日々を歩みませんか。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


しかし、イエスは黙っておられた

2022-02-06

皆様こんにちは。
いつもこのページをご覧いただきありがとうございます。
一年で一番寒い時期です。また、オミクロン株の感染も今までにない勢いで広がっています。身の回りの一つひとつの感染予防を確実に励行し、神様に祈りながら過ごしていきたいと思います。皆様もご自愛ください。

今日は、イエス様が十字架につけられる前に不当な裁判にかけられた場面で、イエス様が黙っておられたことについて考えてみたいと思います。

ところで人が黙る時とはどういう時でしょうか。少し例を挙げてみたいと思います。
・相手の人となりを知るために、まず黙って様子を見る時。(自分から話しだしてしまうと誘導しているようになってしまう)
・相手の責めに反論できなくなってしまい黙ってしまう時。
・自分に確固たる信念がありその思いを黙って実現する時。

他にもいろいろ考えられると思いますが、聖書に記されているイエス様の場面ではどうだったでしょうか。
最後の晩餐の後でイエス様と弟子たちはゲッセマネの園に行って祈りました。時は夜でした。その場所にイスカリオテ・ユダが兵士たちを案内してやって来てイエス様は捕らえられてしまいました。
イエス様は大祭司カヤパのところに引いて行かれました。そして、夜のうちに、イエス様を死刑にするための不当な裁判が開かれました。多くの偽証が述べられましたが、イエス様はそれらに何も答えず黙っていました。ついに大祭司は、「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」と問いかけましたが、イエス様は黙っていました。何故でしょうか。この直前にイエス様は、「12軍団よりも多くの御使いを今すぐ配下に置くこともできる」と言われていたのにです。(マタイ26:57?63)
イエス様が黙っていたのは明確な目的を持っていたからです。そして、「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」(ヨハネ12:27)と言われました。2000年前のこの事実は、現在を生きる私たちにも通じています。罪人であるあなた(人類)の罪の贖いを成し遂げるために自分のいのちを差し出す、まさにこのことが実行される荘厳な場面で、イエス様は黙って身を任せてくださいました。自ら十字架に向かってくださいました。十字架は神様の愛と義が現されていることろです。

カヤパのもとで深夜の不当な裁判を受けた後、夜が明けて今度はローマ総督ピラトのもとに引かれて行きました。ピラトは、「あなたはユダヤ人の王なのか。」と尋ね、イエス様は、「その通りである。」と答えましたが、祭司長や長老たちが訴えている間は何も答えられませんでした。
「お前は神の子キリストなのか」、「あなたはユダヤ人の王なのか」との問いに、イエス様は明確に「その通りである」と答えられました。(マタイ27:1、2、11?14)そのことを聞いていた祭司長たちは、”自分はイエス様とどのように接するか“ ということを判断する責任がありました。

あなたにとって、イエス様はどのようなお方ですか。
あなたは、イエス様をだれだと言いますか。

あなたを救うために自ら十字架に向かってくださったイエス様の愛をお受け取りください。

上里キリストチャペル
久保 哲


ルツの決断と神の祝福

2022-01-16

皆様こんにちは。
いつもこのページをご覧いただきありがとうございます。
一年も、過ぎてしまうと、あっという間ですが、2022年は始まったばかりです。この新しい一年に、神様からの祝福が皆様の上にございますようにお祈りいたします。

さて今日は、旧約聖書の中からルツという女性について見たいと思います。

ベツレヘムに住んでいたエリメレクの家族は、その時あった飢饉を逃れるために、妻のナオミと二人の息子とともに、外国であるモアブに避難しました。
しかし、エリメレクはそこで死んでしまいました。
息子たちはモアブの女性と結婚しました。兄のマフロンはルツと、弟のキルヨンはオルパと。
しかし今度は息子たちも死んでしまい、女性だけが残されました。
ここまで、約10年の出来事です。

ナオミは嫁たちに、自分の故郷に帰って人生をやり直すように強く勧めます。
弟嫁のオルパは泣く泣くナオミと別れて帰りましたが、兄嫁のルツは、「お母さまが行かれるところに私も行きます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」と固く決心しナオミについて行くことにしました。
ルツは「外国の女」として生きることになる厳しい状況も覚悟し、決断しました。
わずか10年弱の付き合いでしたが、ナオミ達家族の歩みの中で、イスラエルの神について知ることとなり、ナオミ達がより頼んでいる神こそ、私も信じていきたい神であると、今後の人生をかけて決心したようです。

ベツレヘムに戻ってから、ルツは麦の刈り入れをする畑で落ち穂を拾い集めて糧を得ようと働きましたが、はからずも、そこは親戚のボアズの畑でした。
ボアズは熱心に働くルツを見て、またその生い立ちを聞いて、「あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」と声をかけ、優しく接してくれました。
ルツは外国の女として扱われる覚悟をしていましたが、恵みの取り扱いを受けました。

その後、ボアズは買い戻しの権利のある親戚として、エリメレクの畑を買い取り、ルツも自分の妻として迎えました。
ボアズとルツの間にはオベデが生まれ、オベデはエッサイを生み、エッサイはダビデを生みました。
ルツはなんとダビデのひいおばあちゃんとなり、イスラエルのダビデ王家の系図に記されるようになりました。

ルツの決心「あなたの神は私の神です」を、神様は豊かに祝福してくださいましたが、同じように、イエス・キリストを信じるあなたも、イエス様の十字架の贖いにより神様に買い戻された者として、同じ祝福に与ることができます。

是非、今年、この神様の祝福をご自分のものとなさってください。
イエス様を信じ、神様により頼む者となられることを、心よりお勧めいたします。

上里キリストチャペル
久保 哲


ヤイロの娘の蘇生

2022-01-02

2022年、新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今日は、「ヤイロの娘の蘇生」と題して、マルコの福音書5章21節からの記事を通して考えたいと思います。

あるときヤイロという人がイエスさまのもとにやって来て懇願しました。それは、病気で死にかけたひとり娘を治しに家まで来て欲しいというものでした。
ヤイロはイエスさまの評判を聞き、このお方ならきっと娘を助けてくださると思ったからです。しかし、ヤイロの家に向かう途中、娘の死が知らされます。ヤイロは目の前が真っ暗になったことでしょう。

そのときイエスさまは、「恐れないで、ただ信じていなさい」とヤイロを励まし、家に行き、なんと死んだ娘を生き返らせてくださいました。両親の喜びは筆舌に尽くし難い喜びであったと思います。

しかし皆さん、ここで少し考えてみて欲しいのです。娘は蘇生しその後の数十年の人生を送ったと思います。しかし、その人生もいつか終わりが来ます。
私たち生きる者にとって、この「死」という現実からは、どうしても逃れることはできないのです。

聖書は厳粛にこのことを教えています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブル9:27)
この「死」は、私たちが造り主である神さまを忘れ「罪」が入った結果がもたらされたものです。さて、ここで話が終わりでしたら希望がありませんね。しかし、聖書にはその続きがあります。
「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブル9:28)

聖書ははっきりと私たちにこの「罪」と「死」に対する完全な解決があり、永遠に続くいのちがあると語ります。
それは、イエス・キリストの十字架によってもたらされるものです。
この十字架は、私たちの罪を負い身代わりにさばかれることにより、私たちに永遠のいのちを与えるためになされた救いの計画によるものです。

そして、イエスさまは死から復活され死という問題に対しても完全な勝利を収められたお方です。今も生きておられ、この瞬間も、私たち一人ひとりを招いておられる救い主です。
あなたも是非、イエス様の招きに応答し、永遠のいのちを得ていただきますよう心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


人間とは?イエスとは?

2021-12-05

そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。
わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」 (ヨハネの福音書8章25、26節)

 上の聖書箇所は今から約2千年前、イスラエルのエルサレムという場所でなされたユダヤ人たちとイエス・キリストとのやりとりです。まず、「言うべきこと、さばくべきこと」という言葉から「人間とは?」ということについて考えたいと思います。直接はユダヤ人に語られた言葉ですが、私たち人間すなわち全人類に当てはまるのです。人間は神の前に裁かれて当然の存在なのです。それは罪があるからです。聖書で言う罪とは殺人や窃盗などのことだけではありません。人を妬んだり、あんな人いなければいいなどと思ったり、必要以上に物を貪ったりすることも罪なのです。心の中の罪までは警察は見抜けないし裁くこともできません。しかし、私たち人間を造られた全知全能の神にはすべてがお見通しなのです。ですから人は神の前に裁かれるべき存在なのです。

 次に「イエスとは?」ということについて考えたいと思います。「あなたはだれなのですか。」というユダヤ人からの質問に「初めからあなたがたに話していること」とお答えになりました。イエスはこの箇所の前にどんなことを話したのでしょうか?『わたしは上から来た者です。』『わたしはこの世の者ではありません。』『わたしはある』などと話していました。何とも不思議な発言ですが、この中に大切な言葉が含まれているのです。『わたしはある』とは旧約聖書を見ると神の称号であることが分かります。もしイエスが真の神から遣わされた神のひとり子でなかったら、大変なペテン師ということになってしまいます。しかし、聖書からイエスの生涯の中での言葉や行いを見たとき、真実で愛のある方であることが分かります。ですから、本当に真実な神から遣わされたひとり子であり、神ご自身でもあるのです。そのことを本人が証言しているのです。

 では神は罪人である人間を放っておかれたのでしょうか?ヨハネの手紙第一4章9節に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」とあります。神はその方(イエス)を私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。私たちが赦されるために必要なのは、ただそのことを信じ、罪を悔い改め、この方に生涯を委ねて歩むことです。裁かれて滅ぶべき者に対し「いのちを得させてくださいました」とは、なんと幸いなことでしょう。この素晴らしいお方に従い、価値ある人生を歩まれることを心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
清水 充


父なる神さまから認められる道

2021-11-07

みなさんは、親に認めてもらえた時、特に、「父親に認めてもらえた」という経験はあるでしょうか。「よくやったな」とか「すごいじゃないか」とか「がんばったな」とか認めてもらえたらとてもうれしいですよね。

ところで、私たちが紹介しているのは、すべてを創造された父なる神さまです。そして、父なる神さまは私たち一人ひとりを愛してくださっています。その愛とは、私たちを子として受け入れてくださる承認の愛なのです。それは、神から離れて失われた者となってしまった者(罪人)に対して、その帰りを待ち続け、神さまのみもとに帰る者を受け入れてくださる愛と言えます。

聖書は、すべての人は神さまに造られた者としてのアイデンティティを見失ってしまい「失われた者」となっているといいます。
そして、すべての人は、父なる神さまを拒み、いわば「放蕩息子」のようになっているというのです。
 
 そこで、「失われた者」に必要なのは、「我に返る」ことであり、子として迎え入れてくださる父の愛の下に帰ることなのではないでしょうか。私たちは、「帰るべき場所」である父なる神の愛の下に帰らなければなりません。父なる神さまはいつまでも、私たちが、「我に返る」(罪を悔い改める)ことを、待っておられのです。
 
 ところで、イエスさまは弟子たちに
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネの福音書:14:6)
 と言われました、イエスさまは、ご自身を通す(信じる)ことが、父なる神の愛の下へと帰る唯一の道であると語りました。イエスさまは、救い主としてこの世に来てくださいました。そして全人類の罪の償いを成し遂げるために、十字架の上で、ご自分のいのちを贖いの代価としてささげてくださったのです。
 
 父なる神さまとの和解とは、罪人が、イエスさまの十字架上での身代わりの死を通して、罪赦された者として、神さまに受け入れられることを意味します。
 是非、イエスさまを信じて、神さまとの和解(父なる神さまからの承認)を得てくださることを心よりお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


ゲセツマネで苦しみ祈られたイエス

2021-10-17

「彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」(イザヤ53:3、4)
これは、イエスの生まれる700年ほど前に書かれたキリストについて告げる旧約聖書の預言の言葉です。新約聖書のイエスの生涯を見ると、まさに、このように歩まれた方であることがわかります。
イエスは、預言にもあるように苦しみを受けることをご存知でした。十字架につけられて死なれること、そして3日目によみがえることを何度も弟子たちに話していました。では、イエスにとって十字架に向かうことは簡単なことだった、何の葛藤も苦しみもなかったのでしょうか。
イエスは、最後の晩餐の後、十字架を目前にして、弟子たちと共にゲツセマネの園に行き、苦しみ祈られます。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕(ルカ22:42-44)
「この杯」とは、十字架上でこの世のすべての人の罪をその身に負うことを意味します。それは、父(神)から完全に断絶されるというイエスにとって最大限の苦しみと悲しみでした。イエスはこの苦しみを経験してくださったことにより、私たちの苦しみにも寄り添うことができるのです。
そして、イエスの祈りの結論は、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)というものでした。人間なら誰でも、苦しいことは避けようとします。まして、イエスの苦しみは、この世のすべての人の苦しみを背負うという、想像すらできないものです。しかし、イエスは、自分の願いではなく、父のご計画が成るようにと祈られました。
その後、イエスは、大祭司カヤパによる裁判の場に引き出されます。不当な裁判によって、死刑判決が下されます。そして、十字架上で「完了した。」と宣言され、死なれたのです。
イエスは、なぜ、この苦しみの道を歩まれたのでしょうか。それは、私たちを愛する故でした。神様は、私たちの弱さも苦しみもすべてわかってくださっていて、私たちに寄り添ってくださる方です。ぜひ神様を信じ、その愛を受け取っていただければと思います。

上里キリストチャペル
坂藤頌一


喜びと感謝の人生

2021-10-03

皆さん、こんにちは。今日は「喜びと感謝の人生」というテーマで聖書からお話をさせて頂きます。

さて皆さんは、毎日の生活の中で喜びと感謝があるでしょうか。私は高校生の時に初めて教会に行きました。そこで驚いたことは、そこに集っている人たち(クリスチャン)が喜びながら大きな声で讃美歌を歌っていたことです。その後何度か足を運び、クリスチャンの方々と話もしました。彼らは心底喜んでいたのです。私は今までこれほど喜んでいた人たちを見たことがありませんでした。どうしてなのかと興味を持ったのです。

ところで、聖書の中で結婚生活に喜びと感謝を求めた人が書かれています。しかし、残念なことに求めてもそれを手に入れることが出来ないでいました。(ヨハネ4章5~15節)
イスラエルのサマリアと言う町での出来事です。その町の女の人がとても暑い最中に井戸の水を汲みにやって来ました。実は彼女は数人の男性と結婚をしましたがうまくいかず、5人目は同棲中でした。当時は考えられないことです。井戸のところにいたイエス様が女の人に水を求めたのです。「わたしに水を飲ませてください」と。彼女はびっくりしました。イエス様はユダヤ人であり当時ユダヤ人はサマリア人と付合いをしなかったからです。彼女は言いました。「どうしてサマリアの女の私に、水を求めるのですか」イエス様が答えられました。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのか知っていたら、あなたの方からその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」(ヨハネ4章10節)
イエス様は「生ける水を与える」と言いました。これは、実際に飲む水の事ではなく、私たちが必要としている「心の喜び、感謝の満たし」を言っています。彼女はそれを持っていませんでした。心が渇いていたのです。イエス様は彼女を知っていたので話しかけたのです。

さらにイエス様はこう言われました。
「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4章14節)
「わたしが与える水を飲む」とは、イエス様を心に迎え入れることです。イエス様を信じる時に内側から喜びと感謝が泉のように溢れるのです。私が高校生の時に出会ったクリスチャンの人たちはイエス様を信じ受け入れていたため、自然と溢れていたのです。

あなたもこのイエス様を信じ迎え入れませんか。その時にあなたの人生は「喜びと感謝の人生」になります。
心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


世の光、いのちの光

2021-09-05

「イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』」(ヨハネの福音書8章12節)

 東京パラリンピックでは、多くの視覚障害者の選手が活躍しました。水泳の木村敬一選手やマラソンの道下美里選手などの頑張りに、多くの方が感動を覚えたのではないかと思います。全盲には2種類あって見えないけど光を感じることのできる人と全く光を感じることのできない人がいるそうです。
 さて、本日の聖書箇所に2つの「光」という言葉が出てきます。このことについて考えていきたいと思います。聖書によると、私たちは見える見えないに関わらず、罪という暗闇の中を歩んでいるのです。あまり自覚はないかもしれませんが、人を憎んだり妬んだりしたことはないでしょうか?そのようなことも聖書では罪と呼んでいます。ある意味では全ての人が盲目であると言えるのです。
 聖書に書かれている神は、人が造ったものではなく、天地万物を創造され人をも造られたお方です。そのお方は罪を憎みます。ですから人は罪を持っている以上、神によって裁かれなければならないのです。そんな私たちのために、人として来られた神のひとり子なるお方がイエス・キリストなのです。
 イエス様が十字架において私たちの身代わりに死んでくださったことによって、私たちの罪は赦されました。そこに救いがある、だからイエス様こそ「世の光」なのです。では、私たちは何をすべきでしょうか?それはイエス様を信じ、従うことです。その時に私たちは「いのちの光」を持つことができるのです。
 暗闇の中から、光り輝くメダルを獲得するパラリンピックの選手がいます。私たちは罪という暗闇の世界から「世の光」と宣言されたイエス様を信じ従うことによって、永遠の「いのちの光」を掴んでいただくよう心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
清水 充


正気に返った人

2021-08-15

皆さん、こんにちは。
マルコの福音書5章1~20節の記事からご一緒に考えてみたいと思います。

イエス様と弟子たち一行がガリラヤ湖の東のゲラサ人の地に着くと、そこに、汚れた霊につかれた人が出てきました。この人は、「墓場に住み足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった」、そして「夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」尋常ではない様子の人でした。

この人がつかれていた汚れた霊とは、悪霊と呼ばれるもので、人々を惑わしたり、人の内に入りその人の行動などに影響を与えたりする霊的な存在であると聖書は記しています。
少しオカルト的な印象を持たれるかもしれませんが、もともとは神様に仕える天使でした。ある時に、神様に反逆して堕落してしまった天使が、この汚れた霊(悪霊)になったと聖書は語っています。

イエス様は、この汚れた霊に対して、「この人から出て行け」と命じられ、その人から追い出されました。
長くこの霊によって、がんじがらめに縛られていたこの人でしたが、彼は、その悲惨な人生から解放されて正気に返ることができました。

そして、この人から追い出された汚れた霊はというと、近くにいた2000匹の豚の群れに移りました。その結果、驚いた豚の群れは一気に崖から湖になだれ落ち、すべて死んでしまったという記事が続きます。
この様子を見ていた人々は、この解放されて正気に戻った人のことを喜ぶよりも、豚が死んでしまったことで、イエス様を受け入れずに「ここから離れて欲しい」と願い出たのです。彼らは、本当に価値ある事柄よりも目先のものを優先してしまったのです。

しかし、この正気に返った人は、イエス様が自分にどんなに大きな事をしてくださったかを人々に伝える者へと変えられました。それまでの悲惨な人生から、本当に価値ある事のために生きる人生へと変えられたのです。

「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコの福音書5章19節)

同じように、私たちは、「罪」と、そこから来る「死」の恐怖によって、がんじがらめに縛られていると聖書は言います。私たちをその束縛から解放してくださるお方がイエス様です。
イエス様は、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり、3日目によみがえられた救い主です。

「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ人への手紙5章1節)

あなたも、イエス様を信じ、罪と死の束縛から解放され自由とされた人生へとお進みになりませんか?
心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


科学から考える聖書の神様

2021-08-01

みなさんは、科学と聖書と聞くと、どこか矛盾するような、対立するような印象を少なからずもたれるのではないでしょうか。確かに、
“はじめに神が天と地を創造された。”(創世記1:1)
という言葉は、神がいないとすると、受け入れがたいだけでなく、非科学的にも感じます。しかし、これは科学と聖書が対立しているのではありません。

律法学者がイエスに一番大切なことを尋ねたとき、
“「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』”(マルコ12:29-30)
と、イエス様はむしろ「知性」を用いて、神様について、神様の造られたこの世界について、よく考えるように教えているのです。

神様が世界を造られたという創造論ですが、それに反対する進化論については、それがあたかも証明された事実であるかのように語られています。しかし、最初の生命がどのようにして発生したか分からないまま積み重ねられている仮説でしかありません。さらに、自然界の中には、進化や偶然では説明のつかない不思議な事象も数多く見られます。

数学者の間で有名なフィボナッチ数列もその1つです。これは、最初に1を2つ並べ、その後、隣り合う数字を足した数を横に並べていく数列のことで、隣り合う数の比が限りなく黄金比(1:1.618)に近づくという不思議な性質を持った数列です。不思議なのは、フィボナッチ数列や歴史的建造物や美術品にも用いられている黄金比が自然界のあちこちに見られるのです。
その典型がヒマワリです。ヒマワリの種の配列は、中心の種の次に360度を黄金比で分割した角度である約137.5度の位置に次の種がつき、その繰り返しで数千もの種を密集させています。この角度が1度違うだけで、種の配列は隙間だらけになってしまうそうです。ヒマワリが数学を使って、効率の良い並び方を考えたのでしょうか。それとも、この自然界をデザインしたデザイナーがいるのでしょうか。

“神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。”(ローマ1:19-20)

神様は私たちを愛する存在として、目的を持って造られました。ぜひ聖書の神様をさらに知って、神様からの愛を受け取っていただければと思います。

上里キリストチャペル
坂藤頌一


ゆるがない平安と喜び

2021-07-18

終末についてイエス様は「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」とおっしゃいました。最近は新型コロナウイルス感染症で人間的な繋がりが持てなくなり、他の人に疑心暗鬼の思いを抱くことが多くはないでしょうか。というのは散歩に出かけると、すれ違う方々の中に、マスクをしておられない方もおられるのですが、その方が慌ててハンカチを口に当てうつむきながら挨拶をかわすのです。何か悪いことをしているかのように・・。折角外に出てそよ風の吹く山道を、気持ちよく歩いているのですから、そこまで気をつかわなくとも良いのではないかと思うのですが・・。
ワクチン接種が進み、安心感が生まれて来るのかな、と思ったらそれほどでもなく、オリンピックは一部を除き無観客で開催することに決まりました。他のスポーツでは観客を入れているのにどうしてなのか思うのですが・・・。
今、明るい話題の、大谷さんが活躍する大リーグオールスター戦。あの大勢の観客、誰もマスクをしていません。日本の30倍以上の死者、感染者数をだしてもワクチン接種が進んだだけであのお祭り騒ぎを楽しんでいます。なぜなのか、と思ってしまいます。
今、テレビや新聞だけでなく、ネットの時代の中で、多くの情報を見聞きすることができますが、どれも、負の情報があふれています。そのような中で私たちは、互いに疑心暗鬼になり、互いにさばき合うようになり、萎縮してしまっているように思うのです。
イエス様が言われた「多くの人の愛が冷える」この時代、決してゆるぐことのない平安と喜びはどこにあるのでしょうか。
イエス様は、十字架におかかりになる前の晩に、このようにおっしゃいました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。・・・あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」それから、イエス様は自ら進んで十字架に向かわれました。そして、十字架にかかられ、死んで、墓に葬られたのです。しかし、この方は三日目に死者の中からよみがえられたのです。
イエス様は十字架にかかられる前、このようにもおっしゃいました。「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
そして、よみがえられたイエス様は、恐れ、ひるんで集まっていた弟子たちの真ん中に、栄光の姿で立たれ「平安があなたがたにあるように。」と言われました。よみがえられたイエス様を見た弟子たちはこの後、「喜びを」抱きながら、いのちをかけて十字架と復活を証し続けました。このような時代にあって「ゆるがない平安と喜び」をイエス・キリストを通して得て下さいますよう心よりお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


創造主なる神

2021-07-04

「クリスマス島」という島をご存じでしょうか?
南半球のインド洋に浮かぶ人口2,000人ほどの小さな島です。
島の半分以上は熱帯雨林の森です。
毎年この島で繰り返されている神秘的な出来事があります。
“アカガニ”の大移動です。このカニは普段は島の中心部の森に住んでいますが、毎年11月頃になると産卵のために一斉に海に向かって大移動を始めるのです。
その数、数千万~1億匹。1億匹のカニが大移動を始めるのです。
“その日”になると、まず、オスが一斉に移動を始めます。1週間かけて5Km先の海に向います。
オスに遅れること数日後、メスが移動を始めます。
先に海岸に到着したオスは数日かけて巣穴を作ります。
そして、オスが巣穴を完成させた頃を見計らってメスが海に到着します。
そこで交尾をし、オスは一足先に森に帰って行きます。
メスはオスが立ち去った後、巣穴で1~2週間、自分のお腹の中で卵を育てます。
そして、ふ化間近になるとメスは卵を海に放出します。この放出は必ず「下弦の月」の「満潮」の時に行われるそうです。
放たれた卵は島の近海で幼生となり、1ヶ月後、子ガニとなって島に戻ってきます。
子ガニたちは一斉に島に上陸して一路、親ガニたちが住んでいる島の中心部の森へと帰って行くのです。
実に神秘的な出来事です。

どうして、このカニたちは一斉に大移動する“その日”が判るのでしょうか?
どうして、このカニたちは5Kmも先の“海の方向”が判るのでしょうか?
どうして、子ガニたちは一度も行ったことがない“森の方向”が判るのでしょうか?
本当に驚きの能力だと思います。

しかし、このような不思議な能力というのは、このアカガニに限ったことではありません。
鮭は産卵の時に生まれ故郷の川に戻ってきますが、どうして自分が生まれた川が判るのでしょうか?
また、珊瑚礁のサンゴは満月の夜に一斉に産卵しますが、どうして満月だということが判るのでしょうか?
この地球上には他にも、私たちの理解を超えた不思議な能力を持った生物がたくさんいます。
はたして、これらの生物は偶然に誕生したのでしょうか?
偶然の産物というには、あまりにも出来過ぎているとは思わないでしょうか?

聖書の一番最初のページ「創世記1章」にこのように書いてあります。
「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1章1節)
私たちが住んでいるこの世界は偶然に出来たのではなく、神によって造られたと聖書は語っています。
聖書の続きを読んでいくと、この世界とその中の全てのものは神によって造られたとあります。
私たち人間も神によって造られたとあります。人間は偶然に誕生したのではなく、神によって造られたと聖書は語っているのです。

もし、無人島に“掘っ立て小屋”が建っていたらどう思うでしょうか?
何の疑いもなく誰かが建てたんだと思うのが普通だと思います。
無人島で誰もいないはずだから、この“掘っ立て小屋”は自然に出来上がったんだ、と思う人はいないと思います。
何か設計されたものがあれば、それを設計した人がいる、デザインされたものがあれば、それをデザインした人がいるはずです。
ビルが建っていれば、それを“意図”と“目的”を持って設計し、建てた人がいるはずです。
同じように人間に対しても“意図”と“目的”を持って造った方がいる、と考えるのは自然なことではないでしょうか。
神は私たち人間を愛の対象として造られました。
私たちを造り、愛して下さっている神がいるということを知って頂けたら幸いです。

上里キリストチャペル
飯塚ー也


どんな時にもあなたは愛されている

2021-06-20

皆さん、こんにちは。今日は「どんな時にもあなたは愛されている」というテーマで聖書からお話をさせて頂きます。

皆さんの中には毎回のように聖書のお話を聞いてくださっている方もいらっしゃり感謝です。

私たちクリスチャンは、なぜ、聖書の話をするのでしょうか? キリスト教を広め信者を増やし、献金を募りお金を得るためでしょうか? 聞いた人が良い気持ちになってもらうためでしょうか?
 私は高校生の時に生まれて初めて教会に行きました。私はその時まで、キリスト教は宗教だと思っていました。一人のクリスチャンが私に言いました。「私たちはキリスト教という宗教を広めるために活動しているのではありません。そうではなく、歴史にあった本当の事実が、全ての人に必要なので伝えているのです。」この言葉が、不思議と私の心に響いたのを覚えています。

神様がどんな時でもあなたを愛されている事実を是非とも知っていただきたいのです。
私たちの命は神様によって与えられ生かされているのです。生きている意味があり、神様の愛が注がれているのです。

よく聞くことですが、「人生って思い通りに行くよりも思い通りに行かない事の方が多いよね。」皆さんはどうでしょうか、思い通りに人生は進んだでしょうか。思い通りでない人たちが多いのではないでしょうか。
今、新型コロナウィルスで、人々は不安と苦しみの中にいます。仕事がなくなり収入が減少して生活が苦しくなっている人が沢山います。そのため自殺者も増えているそうです。病気になったり、交通事故にあったり、職場の人間関係に悩みうつ病になったり、考えもしなかった事が次から次へと起こったりしているのではないでしょうか。

讃美歌の中に「人生の海のあらしに」と言う歌があります。
「人生の海の嵐にもまれきし、この身も・・・」とあり、まさに人生は嵐があることを教えています。
先週のこの時間に「嵐を静めるイエス様」の話がありました。たとえ人生に嵐が吹き荒れたとしてもイエス様に頼る時に平安に満たされるのです。
聖書に「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。・・・そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。(マタイの福音書11章28,29節)

どんな事が起きたとしてもイエス様は、あなたを愛し心に留めているのです。私たちがこのイエス様のもとに行き信じる時に平安で満たされるのです。あなたの人生が変わるのです。

私たちは神様から離れたため、本来の人生を歩めていません。あなたがイエス様を迎え入れるとき、あなたは平安と喜び、感謝と希望に満たされ生きる意味が分かるのです。問題や困難があっても、それらを神様によって乗り越えて(神によって解決して)生きることができるのです。

どんな時にもあなたを愛されている神(イエス)様を信じ受け入れてください。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


総督ピラトについて考える -あなたは「真実」に対してどう判断しますか?-

2021-06-06

 いつも、このページを読んでくださる皆さん、こんにちは。
今日は、「ピラト」という人物について考えます。彼は、キリストの十字架刑を決定した総督として聖書に名をとどめています。

 さて、当時の裁判の経緯はこのようでした。
金曜日の朝方早く、ユダヤ人の指導者たちがピラトのもとにイエスを連れて来て、訴え、死刑判決を要求します。しかし、ピラトは、イエスを調べれば調べるほど、「この人に死に当たる罪はない」ということを確信します。

 ところで、彼は自分が納得すれば、どんなに厳しい処置も平然と実施しました。実際に聖書にはガリラヤ人に対して彼がした弾圧が記されています。

 しかし、イエスに関しては「罪がない」のです。また、この訴えが、ユダヤ人のねたみから出ていることも分かってきました。さらに、彼の妻からも「あの正しい人とかかわらないでほしい」という訴えも届きました。

 その為、彼はイエスの釈放に努力します。彼は「この人に罪を見いだせない。」と判断を下し、「釈放する。」と宣言します。しかも3度もです。

 しかし、最後にユダヤ人の指導者たちは「イエスを釈放することは、カエサル(ローマ皇帝)に背くものだ」と脅します。そして、これを聞いたピラトは、イエスを死刑にするために、引き渡すこととなったのでした。

 「無罪という真実に背いて、正しい人を死刑に引き渡した」ピラトの心情はどのようであったでしょうか?心に大きな「後悔」と「禍根」を残したのではないでしょうか?

 私は、若い時に「あなたは、キリストに罪がなく、あなたの救い主として分かっているのに、何故、この方を信じようとしないのですか。」とクリスチャンに質問されたことがありました。

 神の前に中間はありません。キリストを罪のない救い主として、認めるか、認めないか、しかないのです。私は、その質問があってから、しばらくして、イエスの真実を認め、キリストを救い主と信じ、信仰を持つことができました。

 皆さんも、是非、この方キリストを「罪のない方、ご自分の救い主」としてお信じになられますようお勧めいたします。

上里キリストチャペル
市川 忍


たとえで話されるイエス様

2021-05-16

今回は、「たとえで話されるイエス様」というテーマで聖書マルコの福音書4章から考えたいと思います。
イエス様は、よく身近な例を用いて話されましたが、ここでは、「種蒔く人のたとえ」から始めて多くのたとえを用いて教えられました。この「種蒔く人のたとえ」は、種を蒔くうちに、ある種は道ばたに落ち、鳥が食べてしまった、ある種は岩地に落ち、根付かずに枯れてしまった、ある種は茨の中に落ち、茨が伸びてふさいだので実を結べなかった、そして、良い地に落ちた種は育って三十倍、六十倍、百倍の実を結んだという話です。

実は、この聖書箇所でイエス様が話された中心テーマは、「神の国」についてで、この時代に、どのように神の国が実現していくのか、ということでありました。
ここで、イエス様のたとえを聞いた人たちが、本来の中心テーマを理解しようとしなければ、「農業の話?」で終わってしまいます。
この話の中で、イエス様が大切なこととして言われたことばが繰り返し出てきます。
それは、「よく聞きなさい。」「聞く耳のある者は聞きなさい。」「聞いていることに注意しなさい。」ということばです。

イエス様は、このたとえの意味を弟子たちに教えました。種とは、みことば、すなわち、聖書のことばのことであり、道端や、岩地、茨の中、そして良い地に蒔かれるとは、みことばを聞く人たちのことであり、その心のあり方によって、結果が全く違ってくるということです。
そして、今のこの時代、私たちが、みことばを心に受け入れることを妨害するものが、たくさんあるということです。

ですから、私たちは聞き方に注意しなければならないのです。
私たちが、この聖書のことばに耳を傾け、神様の思いに心を向けてみことばを受け入れるならば、豊かな実を結ぶ者となります。

聖書に、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実が出てきますが、新しいいのちから生まれる実は、このようなものです。
イエス様は、私たちを罪から救い、私たちが豊かな実を結び、神様と共に豊かないのちの中で生きるようになるために来てくださった、これが聖書が私たちに語るメッセージです。

この神様からのメッセージを、ご自分のこととして受け入れ、豊かな実を結ぶ幸いな人生へと進まれますよう心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


ヨブ記に見る試練の意味

2021-05-02

 私達の人生には、様々な試練があります。それは不条理に私達を襲う事があります。横田早紀江さんもその一人でした。当時15才だった娘のめぐみさんが突然行方不明となってしまい、言いようのない深い悲しみと絶望の中で早紀江さんは聖書のヨブ記に出会いました。当時は今のようにまだ何の情報も無い中で、かけがえのない娘さんを突然失い、呆然自失の中で、ある日ひとり家で寂しく、冷たい雪の降る空を見上げ「めぐみちゃんは、どこにいるのだろう。」と思いをめぐらせていた時、以前読むことを勧められていたヨブ記を手に取りました。
「ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。彼に七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった。」(ヨブ記1:1~3)を、早紀江さんは、「なんだか、すごいことが書いてある。」と吸い込まれるように一気に読み進んでいったそうです。
このヨブという人は、このように信仰篤く正しい人であったのに、子どもたちをいっぺんに失くし、家畜を失くし、すべての財産を失くし、自分もひどい皮膚病にかかってしまいます。早紀江さんは、「こんなにまじめに暮らしてきた人であったのに、どうして次から次へと、たたきのめされるくらいの苦難に見舞われるのだろうか。」と思ったそうです。それは、奥さんからも、「神を呪って死になさい。」と言われるくらい、大変な状態でした。
あまりの悲惨さに、時には自分が生まれたことを呪ったり、神を恨んだりすることばを発しますが。最後まできちんと神に目を向ける姿勢を崩さずに信じきっているヨブの姿に、早紀江さんは言いようのない感動を覚えたと言います。早紀江さんは自分の身の上に起こったことと、ヨブの試練、不条理を重ねて、そのヨブに寄り添われる神に出会いました。
実はイエス・キリストも最後まで人に寄り添われた方なのです。無力な人となられた方は、神が人となられた方であり、十字架上の罪人のそばに「いた」方でした。手足の自由も奪われ、すべてを奪い去られている状態の中で、同じく十字架で生涯を閉じようとしている罪人の声に耳を傾け、温かいまなざしを送り、温かい声をかけます。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と罪人の必要に答えられました。このイエス・キリストを信じて下さることを心からお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


金持ちの青年の話

2021-04-18

いつもこの欄を読んでくださっている皆さん、今日は。

さて、今日は、「金持ちの青年の話」をいたします。この話は、新約聖書の3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に書かれています。

ある時、イエスのところに一人の青年が来ます。彼は役人であり、金持ちでもありました。まさに、人々の羨むものを全部持っているような人でした。彼は、イエスに、
「良い先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」と質問します。それに対してイエスは、
「殺してはならない。…盗んではならない。偽証してはならない。父と母を敬え。」という戒めにさらに、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という戒めも加えて、これらを守りなさい、と答えました。これに対して、彼は自信満々に、
「先生、私は少年のころから、それらはすべて守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」と答えました。

ところで、この青年が望んだ「永遠のいのち」とは、どのようなものでしょうか?
それは「罪のない完全な者がいただける神からの報酬(救い)」です。彼は、自分は戒めを守っているのだから、当然いただけるものだ、と思っていたのかもしれません。

しかし、イエスはその青年をいつくしんで(愛して)、
「完全になりたいのなら…(「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という戒めの実践として)あなたの財産を売り払って貧しい人に与えなさい。…そのうえでわたしに従ってきなさい。」と言われました。
この言葉を聞くと、この青年は、悲しみながら立ち去った、とあります。

この青年の何が違っていたのでしょうか?
それは、行いによって、すなわち戒めを完全に守ることによって、永遠のいのち(救い)が手に入る、と考えたところにあります。私たちも、ともすると良い行動をすることで、永遠のいのちが手に入ると考えているところはないでしょうか。しかし、神は、それは「不可能だ」というのです。
それでは「永遠のいのち」とはどのように手に入れるのでしょうか?

聖書は
"…御子(イエス)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ…。"
(ヨハネの福音書 3章16節) と教えています。

是非、全ての皆さんが、自分の行いによってではなく、「イエスを信じること」を通して、「永遠のいのち」を得ていただけることを期待しています。

上里キリストチャペル
市川 忍


イエス様に身をまかせて

2021-04-04

皆様、こんにちは。今回は「イエス様に身をまかせて」というテーマで聖書からお話をします。

最近、ある年配の方からこんな話を聞きました。
「昔を振り返ると色々な事があったね。自分が思っていた人生でなく、色々な問題や大変な事が次から次へとあったね。人生って思う通りに行くよりも思い通りに行かない事の方が多かったね。」

今、新型コロナウィルスで、人々は不安と苦しみの中にいます。仕事がなくなり収入が減少して生活が苦しくなっている人が沢山います。また外出ができず、人々はストレスが溜まっています。自殺者も増えているそうです。平安な人生でなく、とてもしんどい人生となっているのではないでしょうか。

聖書にこのような言葉が書かれてあります。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイの福音書11章28,29節)

疲れている人、重荷を負っている人とは誰でしょうか。今、ストレスを感じ問題を抱えている現代の私たちのことです。
イエス様は、そのような私たちに向かって語っています。「私のもとに来なさい。」と。
なぜならば、問題を抱え苦しんでいる私たちが、負っている重荷を下ろし、人生を平安のうちに生き生きと歩むことが出来るようにして下さるのです。

私たちは神様から離れ、本来の人生を歩めていないのです。本来の人生とは神と共に歩む人生です。それは、平安と喜び、感謝と希望に満ちた人生です。あなたは生きることに重荷を感じていませんか。将来に不安を感じていませんか。イエス様のもとに行きおまかせする時に魂に安らぎを得るのです。問題や困難があっても、それらを神によって乗り越えて(神によって解決して)生きることができるのです。イエス様は柔和でへりくだっており、求める私たちを拒否なさいません。受け入れて下さるのです。

聖書にこのように書かれています。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人の所に入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)

イエス様があなたの心の戸をたたいているのです。あなたがすることは、あなたの心の戸を開けることです。
この素晴らしいイエス様を信じ受け入れてください。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


イエスとは誰か?

2021-03-21

 皆さんは「イエス・キリスト」と聞いてどんな印象を持ちますか?「世界の四大聖人のひとり」「世界三大宗教の一つキリスト教の教祖」などと考える人が多いのではないでしょうか?「明智光秀」と聞くと「主君に謀反を起こし、本能寺の変で織田信長を討った人」という印象ですが、ドラマを見ると新しい解釈で話が展開されていました。埼玉が生んだ偉大な人物「渋沢栄一」は「近代日本の実業家であり、日本資本主義の父、次期一万円札の肖像になる人」という印象ですが、ドラマではやはり脚本家の解釈によって人物像が描かれています。
では、「イエスとは誰か?」この問いを世界の永遠のベストセラーである聖書から考えていきたいと思います。ヨハネの福音書の著者である弟子ヨハネは「イエスが神の子キリストである」(ヨハネの福音書20章31節)と証言しています。新約聖書の中にはイエスの生涯を書いたものとして、4つの福音書があります。その一つでマタイの福音書を見ると弟子ペテロがイエスに対し「あなたは生ける神の子キリストです」と証言しています。新約聖書は9人の人が書いたと言われていますが、その証言は一致しているのです。
では「神の子キリスト」とは何を意味しているのでしょうか?1つ目は「天地万物を造られた神の御子(ひとり子)であること」、2つ目は「神ご自身であること」、3つ目は「救い主(メシア、キリスト)であること」を意味します。
では、「救い主」について説明を加えたいと思います。聖書で言う「救い」とは、災害時の救助とは少し意味が違います。一つは「罪からの救い」であります。聖書によると全ての人は罪を犯したため死と裁きが待っています。そこからの救いです。それには身代わりの死と裁きが必要でした。もう一つは「神との交わりの回復」です。神のかたちとして造られた人は、もともと神と親しい関係にありました。しかし、人間は自らの意志で、自分勝手な道に向かって行ったのです。旧約聖書にこのような預言があります。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53章6節)
すなわち、1人の人に罪・咎を負わせることによって、罪の奴隷状態から解き放たれ、神との関係が回復されるのです。
「イエスとは誰か?」それは、私たちが負うべき刑罰をその身に負ってくださった生ける神の子なのです。
それでは、もしそうだとしたら私たちには何が必要でしょうか?それは「私たちが罪人であり神から離れた者であることを悟り、イエスが私の罪の身代わりとして死んでくださったことを信じること、神との交わりが回復され神のみこころに沿った生き方をしていくこと」であります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)
「イエスとは誰か?」をしかっり考え、このお方を信じる者になることをお勧めいたします。

上里キリストチャペル
清水 充


幸いの道

2021-03-07

 皆さんこんにちは、3月になりますと毎年思い出す事があります。そうです、早いものであの3.11の東日本大震災から十年になりました。死者行方不明者あわせ2万人もの方が犠牲となり、原発事故と津波によって多くの被害がもたらされました。地震の揺れこそリアルに感じましたが、テレビで見た映像はとても現実のものとは思えなかったことを思い出します。

さて、今回は「幸いの道」について聖書から考えていきたいと思います。
聖書にこのような言葉があります。
主(神)はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ」(エレミヤ書6章16節)
皆さんにとって「幸い」とはどのようなものでしょうか。究極的にはこのように言うことが出来ないでしょうか。「愛されていること、愛する者がいること。それが永遠に続くこと」です。しかし、それを妨げているものがあると聖書は語ります。「罪と死」です。しかしこの「罪と死」に勝利され「幸いの道」を開かれた方がいます。イエス・キリストです。

聖書は最初に「道の分かれ目に立って見渡せ」と言います。私たちには多くの試練や、苦難があります。愛するものとの別れ、自らに振りかかる、試練や苦難、そして死。あの十年前の未曾有の災害で私たちはその現実を思い知らされました。

第二に「幸いの道はどれであるかを尋ね」とあります。それは「いにしえからの通り道」とあるように聖書によってはるか昔から示されてきました。今から2000年前、それを最初に見出したのはイエス・キリストの弟子たちでした。弟子たちはとても弱さを持った人たちでした。イエスと一緒にいたら自分たちも捕らえられ、十字架に付けられてしまうと知った時、恐ろしくなり、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまったのです。 

しかし、十字架に付けられ死んで墓に葬られた方は復活され弟子たちにご自身を現されました。その時、弟子たちは変えられ、死を恐れずに十字架の身代わりの死と復活の証する証人となりました。イエスは弟子たちに復活されたご自身を現された時「平安があなたがたにあるように」と言われました。これは単に心の平安というだけでなくあらゆる祝福を伴った言葉です。つまり罪の赦しと永遠のいのちと天国の祝福です。

最後に「たましいに安らぎを見出せ」とあります。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ 14:6)。この方こそ父なる神が、その愛によって私たちに備えて下さった「幸いの道」なのです。この方をご自分の救い主として心に迎えて下さることをお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


1万タラントの負債

2021-02-07

 皆様こんにちは。
いつもこのページをご覧いただきありがとうございます。
コロナ感染防止のための非常事態宣言が延長されました。心配の多い世の中ですが、皆様のもとに神様からの守りと恵みが続けてございますようにお祈りいたします。

 さて今日は、新約聖書の中からイエス様が語られた、たとえ話を見たいと思います。
マタイの福音書18章23節から27節までに書いてあるお話です。

王が自分の家来たちと清算をしたいと思い、まず1万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られました。
彼は返済することができなかったので、王はすべての財産を売って返済するように命じました。そのとき家来はひれ伏して、「もう少し待ってください。全て返済しますから」と頼みました。王はかわいそうに思って彼を赦し、負債を全額免除してくれた。

という内容です。
前後にも文章が続いているのですが、今日はこの部分だけに絞って考えたいと思います。

ポイント① 「1万タラントの負債」
聖書の注釈を見ると、1タラントは6000デナリに相当するとあります。そして1デナリは1日分の労賃に相当するとありますので、1万タラントとは、6000日の1万倍の日数であり、164,383年分の労賃に相当する金額になります。天文学的な数字で、「返済不可能」な金額です。
私たち人間のうちにある罪は、神様の前にこれと同じように、とても大きな負債となっています。

ポイント② 「もう少し待ってください。全て返済します」
家来はこのように言いましたが、滑稽なほどです。頑張って返済できる金額ではありません。
人間が頑張ってみても、自分の罪の代価を払うことはできません。

ポイント③ 「王はかわいそうに思って彼を赦し、負債を全額免除してくれた。」
神様も、私たちのすべての罪を赦してくださいました。
イエス様は十字架の上で、「完了した」と言われましたが、この言葉は経済用語で、「(負債を)完済した」という意味だそうです。

私たちの罪のために払わなくてはならないすべての代価(代償)が「払い終わった」のです。
何と大いなる神様の恵みでしょうか。

ヨハネの手紙第一 1章9節に、
「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。
イエス様を救い主と信じ、この神様の大きな恵みをお受け取りください。

上里キリストチャペル
久保 哲


初めての罪

2021-01-17

 皆様こんにちは。
今日もこのページをご覧いただきありがとうございます。
コロナ感染防止のために非常事態宣言が再発出されましたが、皆様のもとに神様からの守りと恵みがございますようにお祈りいたします。

 さて今日は、創世記に出てくる人類最初の罪と、その時に神様が示してくださった恵みについて考えてみたいと思います。この記事は創世記3章の中に記されています。

 神様が最初に造られた人アダムはエデンの園に住まわされ、そこにあるたくさんの種類の木の実を自由に食べることができました。しかし、園の中で1本だけ、神様が「食べてはならない」と命じた木がありましたが、アダムはその「善悪の知識の木」の実を食べてしまいました。これが人類最初の罪として記されています。
アダムはなぜ神様が禁じたことを守れなかったのでしょうか。
姿の見えない神様が以前言われたことばよりも、今、目の前にいる妻のエバが言ったことばによって心動かされ、更に自分の欲望も抑えられなくなってしまったのでしょうか?
神様があなたにこのことを言われたとしたら、あなたは守れますか?
私たちの内にも、神様の姿が見えない時に、自分の欲望を抑えられずに行動してしまうという弱さがあります。

 この木の実を食べてしまったアダムに対して、神様は次のように臨みました。
(1)「あなたはどこにいるのか?」
 → 私たちはどこに立っているでしょうか?
(2)「あなたは食べたのか?」
 → 自発的悔い改めを待ってくれました。
(3)いちじくの葉の替わりに皮の衣を用意してくださいました。
 → すぐに枯れてしまう不完全なものではなく、完全な皮の衣をくださった。
 → 血の犠牲を伴う完全な救いを表します。

 このように、神様は創造の初めから、すなわち、アダムが罪を犯してしまったその時から、救いの型を示してくださいました。アダムが用意したすぐ枯れる葉の衣ではなく、動物が屠られて永続性のある皮の衣が用意されました。これは、キリストが十字架で死ぬことによって、私たちの罪が完全に赦され、きよめられる永遠の救いが用意されたことを表しているのです。

 あなたが罪から救われるために必要な神様の御業(みわざ)は終了しています。後は、あなたがそれを信じ、受け入れる決断をされることだけです。
「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。(聖書)」
あなたに差し出されている皮の衣、すなわち「イエス・キリストによる救い」を、お受け取りください。

上里キリストチャペル
久保 哲


多くの病人を癒やされるイエス様

2021-01-03

皆さん、新年明けましておめでとうございます。
今年は、ご自宅で静かにお正月を過ごされているかもしれませんね。
私たちは、このコロナ禍により今まで当たり前だった生活ができなくなりました。あらためて、それが実は「当たり前」ではなく恵みであることを覚えさせられます。
そしてその恵みは、すべてを造られ私たちに命を与えられた神様から来ており、私たちの救い主イエス様によって実現したと聖書は語ります。
今日もこのことを聖書からともに考えていきましょう。

さて、今日のお話のタイトルは「多くの病人を癒やされるイエス様」です。
聖書箇所は、マルコの福音書3章7~12節です。
10~12節には、「イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。汚れた霊どもは、イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ。イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた。」とあります。

多くの人が、イエス様の噂を聞き癒やしを求めてやって来ました。彼らの興味、関心は、イエス様に病気を治してもらいたい、というこの地上のことだけでした。

そして、汚れた霊どもが「あなたは神の子」と叫んだのは、イエス様の働きを妨害し、人々の関心事をこの地上のことだけに向けさせるためでした。「みんな、見てみろ、これが神の子で病気を癒やしてくれる人だぞ」こんな感じですね。

皆さん、神の子イエス様がこの地上に下って来てくださった目的は、この地上の身体を癒やすことや、奇跡を行われること、そのものが目的ではありません。
もちろん、結果的に多くの病人を癒やされましたが、それは、神であるお方が人として歩まれ、神のご性質を現され、人々を深く哀れまれた結果であり、そのようなお方として来られると聖書に預言されたメシヤ(救い主)であることを現すためでした。

しかし、イエス様が来てくださった本来の目的は、私たちの内側の問題、罪と死の問題を解決するためであり、たましいの癒やしを与えてくださるためでした。
そのためにイエス様がこの地上で送ってくださったご生涯は、いばらの道であり、その最後は十字架の死でありました。私たちが自分の罪のために受けるべき苦しみを、すべてその身に負ってくださったのです。

神様がイエス様によって与えてくださる、この大きな恵み、たましいの癒やし、救いを、ぜひご自分のものとしてお受けください。心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


イエスの母、マリア

2020-12-27

 皆様こんにちは。
今日もこのページをご覧くださりありがとうございます。
皆様のもとに神様の恵みがございますようにお祈りいたします。

 さて、先週はクリスマスがありましたが、素敵なクリスマスを過ごされましたでしょうか。そしてクリスマスが終わり、今週はもう年末であり、今週末には年が明け、正月になってしまいます。時が過ぎるのが早いですね。

 クリスマスの時期に、神様のことについてじっくり考えていただき、神様を身近に感じてほしいと願っていましたが、現在の忙しい社会生活の中では、なかなか難しいことかもしれません。

 さて今日は、イエスの母マリアについて見てみたいと思います。
 マリアは神様により、救い主を宿す母として選ばれました。御使いによってそのことが示された時に、戸惑いましたが、「あなたのおことば通りになりますように。」と言ってそのことを受け入れました。
神様から選ばれたことは嬉しかったと思いますが、一般的には経験することのない大変なことが起こることも覚悟し、救い主の母になる道を歩み始めました。
この時から救い主との関わりは切り離せなくなりました。他人事ではなくなり、当事者として歩むことになったのです。

 子どもが生まれた時に、羊飼いたちが天使の御告げを受けたと言って、家畜小屋に訪ねてきました。
東方の博士たちが、王が生まれた星を見たと言って礼拝にきました。
12歳になったイエスは、神の宮に行った時に律法の専門家たちと論じ合っていました。
30歳を過ぎた頃には、神の国のことを伝え、病人を癒し、それらのことにより国の要職者たちから迫害されるようになり、ついに十字架につけられることになってしまいました。

 マリアの心が引き裂かれるような出来事がありましたが、その全てを見届けました。
 マリアは、イエスとともに歩み、イエスが神であると信じ、神が、罪を犯してしまった人間を救うために救い主を遣わしてくださったことを理解しました。そして「人」としてこの地上を歩んでくださった神のひとり子イエス・キリストを通して示された神様の驚くべき大きな愛を知ることができました。

 今日このメッセージを読んでくださったお一人おひとりが、マリアのように、神様との関わりを自分から切り離すことなく、自分と深く関係する方として受け入れ、神様の恵みに与っていただきたいと願います。

 来年も、神様の恵みのうちに、皆様にとって素晴らしい年となりますよう、お祈りいたします。

上里キリストチャペル
久保 哲


本当の幸せって何?

2020-12-13

 皆様、こんにちは。今回は「本当の幸せって何?」というテーマで聖書からお話をします。

 人は誰でもが、幸せになりたいと願っているものです。そして、多くの人は、自分の望むものが満たされるならば、幸せになれると考えています。

例えば、たくさんのお金、何億何十億があれば幸せになれるのでは。多くの欲しい物、豪華な家や趣味の物があれば幸せになれる。仕事をしなく毎日ゆったりと暮らしていける環境があれば幸せになると思うのではないでしょうか。しかし、中々思い通りには人生はならないものです。お金は貯まらない、豪華なものが持てない。さらには、事故や病気、災害など自分の身に起きてしまう。

もうすぐ、新年になり多くの人が初詣に行きます。2009年は9939万人が参拝し今までの最高の人出であったと統計が出ています。何を願って参拝したでしょうか。縁結び、商売繁盛、家内安全、学業などです。これらがかなうと幸せになれると考えています。本当にそうでしょうか。

聖書の中に、すごい人物がいます。皆さんもこの名前を聴けばすぐに分かると思います。その名前は「ソロモン」と言います。ソロモン宮殿を建て、私たちが欲しいと願った物をみな叶えた人物です。皆さんはうらやましく思うかもしれません。しかし、そのソロモンが驚くべき言葉を言いました。「空の空。すべては空」と言ったのす。

聖書にはこう書かれていました。(旧約聖書 伝道者の書2章4~9節)
「私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を作り、あらゆる種類の果樹を植えた。・・・自分のために銀や金、宝を集めた。快楽である多くのそばめを手に入れた。」

そのソロモンは幸せではなかったのです。私たちの望むものを全て手に入れていたソロモンでしたが、彼は「空の空。全ては空」と言ったのです。そうです。自分の望むものが満たされても、幸せになれないのです。

ではどうしたら幸せになれるのでしょうか。
ソロモンが結論を言っています。 (伝道者の書12章13節)
「結局のところ、もう全てが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」神様は私たちを造られ生命を与え、愛し、イエス・キリストによる救いを与えてくださるお方です。この神様を知り従うことこそ、人間にとって本当の幸せなのです。

続けて聖書の話を聞き、本当の幸せを手に入れて下さい。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


あなたを待っていてくださる、イエス・キリスト

2020-12-06

 いつもこのHPを見てくださっている皆様、こんにちは。依然、コロナ禍は猛威を奮っている状況です。充分お気をつけください。今回は上記のタイトルでお話しします。

 ところで、皆さん「摂理」という言葉を知っていますか?一般にも使われていますが、聖書の中にも使われています。簡単な言い方をすれば「継続する神のみわざ」と言えます。すなわち、神は全世界を創造した後も、引き続きこの世界に働いていてくださる、ということなのです。勿論、私たち一人一人にも今も働いてくださっています。

 さて、聖書の中に「サマリヤの女」(ヨハネ4章1節~)の話があります。
イエスは、この女に会うために、わざわざ山道を通りサマリヤに行きました。そして、その女の満たされない思いに見事に答えられました。

 また、同様に収税人のかしらのザアカイにイエスが会った話があります(ルカ19章1節~)。彼は、財産、地位、全て持っていましたが、その心の中に「空虚感」がありました。そこで、彼はイエスにどうしても会いたいと思いましたが、背が低かったので、道を通るイエスを群衆のために見ることができませんでした。そこで(恥を忍んで)前方のいちじく桑の木に登りました。すると、ちょうど通りかかったイエスが「ザアカイ、今日はあなたの家に泊まることにしている。」と言ってくださったのです。彼は喜んで家に招待します。そして、自分のした不正も告白し、イエスから「救いがこの家に来た」と言われるのです。

 この二人はイエスとの出会いを通して希望に満ちた新しい人生をスタートしたのです。

 今回紹介した二人は約2000年前の人達ですが、同じようにイエスは、私にも聖書を通して、また、クリスチャンの友人を通して、イエスの「良き訪れ(福音)」を教えてくださり、生きる希望を与えてくださいました。

 神様は、今も働いています。そして、あなたが神の元に帰ることを待っているのです。
是非、この機会に、イエス・キリストにある希望(救い)についてお考えくださることを強くお勧めいたします。

上里キリストチャペル
市川 忍


イエス・キリストを信じる幸い

2020-11-29

皆様、こんにちは。今日は、イエス・キリストを信じることで、どのような幸いがあるのか考えてみたいと思います。

聖書の中には、イエス・キリストの生涯を記録した書簡が4つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという人達がそれぞれ執筆した福音書と呼ばれる書簡です。これらは、取り上げている出来事や強調点は異なるものの、執筆目的は同じと言えるでしょう。イエス・キリストと寝食を共にした12弟子の一人ヨハネは、自らが福音書を書いた目的について、このように記しています。

「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書20章31節)

ヨハネは、イエスが神の子キリストであることを証明する「しるし」の中から幾つかを選んで、福音書を執筆しました。それは、読者がしるしを通してイエスが神の子であることを信じ、信じる者に与えられるいのちを得るためです。この「いのち」は、私達の肉体を動かす命ではなく、肉体が死んだ後のいのちのことです。

私がかつて通っていた教会に、腕利きの営業マンとして働き通した後に、イエスが神の子キリストであると信じた老年の男性がおり、働き始めたばかりの私を気にかけてくださいました。私にとっては、話していると何とも言えない安心感を与えてくださる方だったのですが、残念なことに、数年後に病気で天に召されたのです。彼の死を聞いた時には涙が止まりませんでしたが、悲しみの中にも確かな希望がありました。それは、「イエスが神の子キリストであると信じる私達は、やがて天で再会することができる」という聖書に記されている約束に基づく確信です。

イエスが神の子キリストであると信じる幸いは何でしょうか。それは、真のいのちが与えられることです。ヨハネの福音書に書かれているしるしを通して、イエスが神の子キリストであることを知り、真のいのちを持つ幸いを味わっていただきたいと思います。

上里キリストチャペル
大塚 歩


ザアカイを変えたキリストの愛

2020-11-15

今回はザアカイという人のお話をしたいと思います。
新約聖書のルカの福音書にザアカイという取税人が出てきます。
取税人とは税金を取り立てる人です。彼はその取税人のかしらでイスラエルのエリコという町に住んでいました。
当時のイスラエルはローマ帝国の属国になっていました。ですから支配国であるローマの命令に従わなければなりませんでした。
そのローマからの命令の一つに納税義務があり、その税金を取り立てていたのが取税人たちでした。
この取税人たちはユダヤ人でありながら支配国であるローマの手先となって同じユダヤ人たちから税金を取り立てていました。
そして、多くの場合、必要以上に取り立てて、余計に取った分を自分の懐に入れていました。仲間を裏切って私腹を肥やしていたわけです。
そんな取税人たちはローマの手先となって私腹を肥やしていたということで同じユダヤ人たちから「罪人」と言われてもの凄く嫌われていました。
そんな「取税人のかしら」だったのが今回のお話に出てくるザアカイという人です。
彼は金持ちでしたが、何か満たされない思いでいっぱいのようでした。それは、おそらく孤独だったからだと思います。
ある日、ザアカイが住むエリコの町にイエス・キリストが訪れました。
沿道はイエスをひと目見たいという群衆で人だかりとなっていました。
ザアカイもイエスを見たいと思いましたが、彼は背が低かったので群衆のために見ることができませんでした。
そこでザアカイは近くの木に登ってイエスを見ることにしました。
ザアカイが沿道のいちじく桑の木に登ると、そこにイエスが通りかかり、ザアカイを見上げてこう言いました。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
イエスがこう言うと、ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えました。
イエスがザアカイの家に招かれて行ったことに群衆は納得がいかず、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言いました。
嫌われ者で罪人と呼ばれていたザアカイがイエスに受け入れられたことに人々は納得がいかなかったのでしょう。
ところが、イエスを自宅に招き入れたザアカイには大きな変化がありました。
ザアカイはイエスに向かってこう言いました。
「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
ザアカイはそれまでの不正を悔い改め、改心したのです。
ザアカイを変えたモノとは何だったんでしょうか。
それは「キリストの愛」です。
罪深い自分を、ありのまま受け入れてくれる「キリストの愛」に触れて、ザアカイの心は変えられました。「罪は罪」、「悪い事は、悪い事」なのですが、その以前に、そんな者をも受け入れてくれる「キリストの愛」によって、ザアカイの心は変えられたのです。
イエスは最後にこう言われました。
「今日、救いがこの家に来ました。(中略) 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
「人の子」とはイエスが自分を指して言う言葉です。
言い換えるなら「私イエス・キリストは、失われた者を捜して、救うために来たのです。」ということです。
「失われた者」とは、神の元から迷い出た私たち「人間」のことです。
イエスは別の所でこう言っています。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」
また、別な所でこう言っています。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
ぜひ、このイエス・キリストをご自分の「人生の主」として求めて頂ければと思います。

上里キリストチャペル
飯塚ー也


罪と死に勝利された方

2020-11-08

トルストイは「懺悔」という作品の中で、最後は死で終わってしまう人の一生をこのように書いています。「・・・この私というのは完全になくなってしまうのだ、それなのに何であくせくするんだろう。どうして人はこの事実(死)に目をつぶって生きて行くことが出来るんだろう。実に驚くべきことだ・・・。」考えさせられる言葉です。
実は、彼は誰もがうらやむような人生を送った人でした。10代の妻と結婚し沢山の子供を授かり、彼の書いた小説は世界中で読まれベストセラーになり、財産もあり、健康にも恵まれていました。でも彼は虚しかったのです。彼は、小さい頃に両親を亡くし、その後も身近な人たちの死を見てきました。彼は、最後は死で終わってしまうということに怒りと虚しさを覚えたのです。
私は最近、愛犬を亡くしました。10年間一緒に過ごしました。でも、急に死んでしまったのです。亡くしてみると。ああすれば、こうしてあげればと後悔の念が次々に浮かんでくるのです。人が一生を終え、死を迎える時にも、空しさや、後悔、恐れがあるのではないでしょうか。また、死は人が予期しないときにも訪れます。向かい合う時間もなく突然に・・・本当に残酷なものです。
聖書も人生をこのように言っています。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」(伝道者の書1章2,3節)。それは、すべてのものの創造主である神を無視して人が生きる時に達する結論として記されたことばです。聖書では、この神を無視した生き方を「罪」と言い、その罪の結果「死」が入ったと言っています。
この罪と死に真正面から向き合われた方がいます。イエス・キリストです。十字架に架かられる前の晩にゲツセマネという場所で彼はこのように祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイの福音書26章39節)
このように祈りながら、自ら十字架に向かって真っすぐに進んでくださいました。このように神のみこころに従って、私たちが受けるべき罪に対する神のさばきを一身に背負って、身代わりの死を遂げられたイエス・キリストを神は死者の中からよみがえらせてくださったのです。罪と死に勝利されたイエス・キリストを信じる者に永遠のいのちを与えてくださるためです。
 是非、このイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


もう少しの間

2020-11-01

皆さんは、「ああしとけばよかった」「こうするべきだった」と後悔することってありますか?
今回は「もう少しの間」という少し不思議なタイトルで、話をしたいと思います。

「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(ヨハネの福音書7章33,34節)

これは、約二千年前にイエス様がイスラエルのエルサレムでユダヤ人指導者に語った言葉です。ユダヤの人たちはイエス様が生まれる前からメシア(救い主)が来るのを待ち望んでいました。イエス様が権威ある言葉を話したり、証拠としての奇跡をたくさん行いました。それを驚いたり信じたりする人が多くなってきたので面白くなかったのです。そこで捕まえようとしていました。

最初の言葉は「もう少しの間、イエス様はユダヤ人とともにいて、それから父なる神様の元へ帰る。」という意味です。これは、ユダヤ人たちにとってはチャンスだったのです。

イエス様は、天地万物を創造されたまことの神、全能の神から遣わされたメシア(救い主)でした。

「もう少しの間」とは、ユダヤ人たちにとっては、重要な時、かけがえのない時、無駄に過ごしてはいけない時でした。それはイエス様を信じるチャンスだったのです。

後半の言葉は、「ほかのメシアを探しても、イエス様がメシアだと気付かなければ、何も見つけられず、天国に行けませんよ。」と警告をしているのです。

聖書は、はっきりとイエスこそまことの神であり救い主であると語っています。そして私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれ、三日目によみがえられました。このことを信じ受け入れる者が、イエス様の元(天国)へ行けるのです。

「もう少しの間」とは私たちにも当てはまる警告です。「あの時、信じておけばよかった」と後悔しても始まらない時が来るのです。今という時を無駄にすることなく、この素晴らしい救い主を信じ受け入れていただきたいと思います。

上里キリストチャペル
清水 充


安息日の教えと片手の萎えた人の癒やし

2020-10-25

コロナの影響が続き、自粛等によるストレスも私たちの生活に大きな問題となっています。現代病の多くがストレスによるものと言われています。
そして人は、それらを癒やしてくれるもの、私たちの心に安息を与えてくれるものを求めます。
私たちにとっての本当の安息とは何か、聖書から考えてみましょう。

(聖書箇所 マルコの福音書3:1~6)
あらすじを説明します。
イエス様が会堂に入られると、片手のなえた人がいました。
当時の指導的立場にあったパリサイ人たちは、イエス様を訴える口実を見つけるため、その様子をじっと観察していました。
イエス様は、その片手がなえた人に、「真ん中に立ちなさい」と語りかけ、こう言われました。
「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、悪を行うことですか。いのちを救うことですか、殺すことですか。」と。
人々は答えられずに、黙っていました。
そして、片手のなえた人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。そして、この人は癒やされ手が元どおりになりました。
これを見た、パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうか、と相談した。というお話です。

皆さん、私はこのところを読むたびに、いつも思うのですが、イエス様の言われたことは、おもしろいなあ、と思います。
皆さん、手がなえている人に、「手を伸ばしなさい」と言いますか?
もし、この人が、無理だと言って、あきらめてしまっていたら事は起こらなかったと思います。しかし、彼は手を伸ばしました。そして彼は癒やされました。
これは、そこに信仰と決心、そして行動が必要であることが教えられます。
聖書が言う「信仰」とは、信頼してそのことに身を委ねる行為です。

イエス様は私たちを救うため、私たちの身代わりに十字架に架かり、3日目によみがえり、救い主として私たちを招いておられるお方です。
それは、私たちが、永遠のいのちを持ち、天国で神様と共に、豊かないのちの中で生きるためだと聖書は教えます。

私たちが、この招きを受け入れ決心して一歩を踏み出すならば、たましいの癒やしを経験することができ、永遠のいのちに与る者となります。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)

どうぞ、今日、あなたを真の安息に招いておられる神様のことばに信頼し、決心され、一歩を踏み出していただきたいと思います。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


ナアマンの癒し - 神様の声はどこから聞こえるか -

2020-10-18

皆様こんにちは。
いつも聖書ワンポイントメッセージを読んで下さりありがとうございます。

今日は、旧約聖書 第Ⅱ列王記5章1節から14節までを見たいと思います。

読む前に今日の話しに出てくる単語を説明しておきます。

アラム・・イスラエルの隣国でシリアのことです。

ツァラアト・・重い皮膚病で、感染するため、発症すると社会から隔離されてしまい、人の力(医療)では治すことができません。聖書では、人の罪を表すものとして扱われており、宗教的に汚れているとみなされました。
日本語にぴったりのことばがないので、ヘブル語を音訳したものです。

聖書をお持ちの方は、今日の聖書箇所を読んでください。

あらすじを書きます。
・アラムの王の軍の長ナアマンは、優秀な将軍で、多くの戦いを勝利に導きました。そのため、主君に重んじられ尊敬されるほどの人でしたが、ツァラアトに冒されていました。
・かつてイスラエルの地から捕らえられて来ていた一人の若い娘が、ナアマンの妻に仕えていました。彼女は女主人に、「サマリアの預言者のところに行けばツァラアトを治してもらえるでしょう。」と言いました。
・ナアマンは主君に頼み、その預言者のところに行かせてほしいと頼みました。
※途中省略
・ナアマンは、銀10タラント(約340kg)、金6,000シェケル(約68kg)、晴れ着10着を持って、馬と戦車(威厳を示すため)で預言者エリシャの家に着きます。
・エリシャは、使者を遣わして「ヨルダン川で7回身を洗いなさい。」と伝えただけでした。
・ナアマンはその対応に怒って帰りかけました。
・その時、ナアマンの従者が「もし預言者が難しいことを言われのだったら、あなたはそれをなさったのではありませんか。彼はただ身を洗いなさいと言っただけです。」と進言しました。
・ナアマンは、伝えられたことば通り、ヨルダン川で7回身を洗ってみると、彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになりました。

今日の聖書箇所から教えられることを見たいと思います。
(1)ツァラアトが癒された。
 →不可能と思われていた、病気が治った。
 →不可能と考えられている罪が赦されることを示す。
(2)ヨルダン川で7回身を洗う。
 →人間の考える方法ではなく、神が示してくださる方法による。
 →難しいことではない。罪の赦しも、人間のなすべきことは、悔い改めて信じること。
(3)小さな助言の中に神の声がある。
 →イスラエルの若い娘のことば
 →ナアマンの従者の進言
 →エリシャの指示(簡単なこと)

まとめ
 神様は、私たちにも小さな声を通して語ってくださいます。
弟や妹、子どもや孫からの教会への誘い。そして聖書のことばを通して、などなど。
しかし、神様のことば(聖書)は真実であり、力があります。
私たちの罪を赦し、永遠のいのちと生ける望みを与える力があります。
あなたも是非、神様の小さな声に応答してください。

上里キリストチャペル
久保 哲


救いをもたらす復活の力

2020-10-11

 みなさんは、生きていて、空しく感じた時はありませんか。
私は、社会人になった時、何のために、何で生きているのだろうと空しさに悩んでいた時がありました。お酒を飲んでも、好きなことをしても、その空しさは消えませんでした。そんな時、イエス・キリストの十字架の上でのことばに出会いました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかが分かっていないのです。」このことばは空しさに沈んでいた心に訴えるものがありました。
当時、私は両親に対して怒りの思いがあり、そんな自分を許せない思いも持っていました。けれども、そのキリストのことばに触れた時、空しさも、怒りも、ゆるせない思いもすっと消え、心に平安が訪れたのです。
その時の私は、聖書の事はよくわかっていませんでしたし、十字架の上の苦しみが、どれほどのものなのか、どんな意味があるのかも知りませんでしたが、それでも十字架につけられている中で、このようなことばを語られることが出来る方に強く惹かれるものがありました。
聖書は、「空しさ」について、こんなことを言っています。伝道者の書1章2,3節。「空の空、伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」9章3節には、「日の下で行われるすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ」と書かれています。
もし、人生において生きる意味が分からず、正しいさばきがなされず、ふさわしい報いがなかったら。何と空しく、また、怒りを引き起こすことでしょうか。聖書は、それは神を無視した結果だと語ります。神は、伝道者の書12章13節で「神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と言っています。正しく報い、正しくさばかれる方がおられる。この方を「恐れよ」。神を愛し、隣人を愛せよ。その「命令を守れ」と「これが人間にとってすべてである」と語るのです。人生には意味があるのです。
 それは神を信じて歩む人生であり、神から離れて、空しく生き、空しく死んで終わってしまう人生ではありません、神は私たちを愛され、イエス・キリストによって私たちを救い、真に希望を与えるために。キリストを死者の中からよみがえらせました。もし、そうでなかったら、キリスト教は二千年前に空しく終わっていたでしょう。それほど弟子たちは弱く、イエス・キリストが十字架に付けられ死なれた時、恐れて逃げ、隠れてしまうような者たちでした。しかし、よみがえられたキリストに出会ってから、命を賭けてキリストの復活を証しする者になりました。ウソのために命を賭ける人はいません。また、キリストのよみがえりは、正しい神のさばき、正しい神の報いがあることを教えています。正しく生きることに意味があることを。死んで終わりではないことを教えているのです。

神は、イエス・キリストを死者の中からよみがえらされました。神はこの方を、さばき主、救い主としてお定めになったのです。イエス・キリストをご自分の救い主として、心に迎え、救いを得てくださいますよう、心よりお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


天の御国のたとえ話より『救い』について考える

2020-10-04

 皆さん、こんにちは。
 今回は、イエス様の話した「天の御国のたとえ話ー王の息子の披露宴の話ー」(マタイの福音書22章1節~14節)より考えてみたいと思います。
 皆さんも、結婚式に出席したことがあると思います。招待状が届き、出席の意思表示をし、当日は正装で会場に行かれたことと思います。

 このたとえ話の中では、ある国の王子の披露宴が開かれました。当時は、披露宴の準備が全て出来てから招待者に連絡したようです。王はしもべ(家来)を遣わして招待者に「食事の用意ができました。…どうぞ披露宴においでください。」と言いましたが、招待者達は、ある人は自分の畑に、また、別の人は商売へと行って来ませんでした。そればかりか、王のしもべを馬鹿にし、最後には殺してしまいました。これに対して王は怒り、その者達を滅ぼしてしまった、というのです。

 これは、例え話なので意味があります。それは、神の民として選ばれたユダヤ人が神の招きを拒否したため、ついには国が滅ぼされれしまったことが考えられます。

 次に王は、街の通りにいる人を、誰でも披露宴に招待しました。誰でも出席することができましたが、ただ一つ条件がありました。それは、(多分、王から貸与されたと考えられますが)礼服の着用でした。会場が招待者でいっぱいになったところで、王が入ってみると、ただ一人礼服を着ていない人がいました。そこで王は「友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入ってきたのか。」と聞きますが、彼は黙っていました。(多分、その人は、礼服着用の条件を十分知っていたのでしょう。)そして、彼は、披露宴会場より暗闇に放り投げられた、という話なのです。

 この話の意味している事は、なんでしょうか。
 それは、この話を通してイエス・キリストによる「救い」が示されているのです。このホームベージでも幾度となく取り上げられていますが、「あなたが救われる」ための条件は、ただ一つなのです。この話では、披露宴に出席できる条件が、たった一つ、礼服の着用であったようにです。すなわち、「創造者である神を認め、自分の罪を認め、その罪のために十字架にかかり、死んで、三日後に蘇った、イエス・キリストを自分の救い主として信じる」事なのです。

 ところで、このたとえ話は、「天の御国」の話なのです。是非、これを読まれたあなたがイエス・キリストを信じて、救われること、そして、「天国」への切符を確実に手にされることを期待しています。

上里キリストチャペル
市川 忍


安心できる人生の土台

2020-09-27

皆様、こんにちは。今日は、安心できる人生の土台について、イエス・キリストの言葉から考えていきたいと思います。

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。」(ヨハネの福音書14章27節)

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネの福音書16章33節)

これらは、イエス・キリストが十字架にかけられる前に、寝食を共にしてきた弟子達に語った言葉です。この言葉から、二点、考えたいと思います。

一点目は、イエスが与える平安は、世(私達が生きている社会や世界)が与える平安とは異なるもので、苦難の中にあっても心を騒がせることがない平安である、ということです。
「平安」という言葉を広辞苑でひくと、「無事でおだやかなこと」とあります。日本語では何も問題がなく、安心できる状況を指して平安という言葉を使います。しかし、ここでイエスが言っている平安は、それとは違います。イエス・キリストの平安は、問題が解決していない苦難の只中にあっても持つことができる平安なのです。
聖書は、神に信頼を置く人が苦しみに遭わないとは言っていません。思いがけない事柄に遭遇し、悲しみや痛みの中に投げ込まれるような体験は、誰にでも起こりえます。しかし、苦しみや悲しみの只中でも、安心を得ることができるイエス・キリストの平安があるのです。

二点目は、平安を与えるイエスは、世に勝った方であるということです。
世に勝つとは、どういうことでしょうか。イエスは、社会的に蔑まれていた人や問題を抱えていた人から受け入れられた一方で、特に当時の指導者たちからは、毛嫌いされ、時に命を狙われるほどでした。そして、最後は、策略によって十字架にかけられることになります。しかし、どんな理不尽な状況に陥っても、イエスは悪に対して悪で報いることをしませんでしたし、自暴自棄になったり、絶望することはありませんでした。イエスは、私達が経験し得る全ての困難に、善を持って勝利した方なのです。また、十字架にかけられますが、死後3日目に復活し、死に対しても勝利する方であることを示します。イエスは、社会の中のあらゆる悪や苦しみに対して勝利しただけでなく、死をも打ち負かす方であり、不安や死の恐怖に捕らえられている全ての人を救うことができる方なのです。

 唯一の主権者であり、人の苦しみや痛みでさえもその御手の中に治めておられる神は、私達を助け、イエス・キリストにある本物の平安を与えたいと願っておられます。このイエス・キリストの平安を得るために、真の神を知り、イエス・キリストによる救いを受け取っていただくことを、心からお勧めします。そして、イエス・キリストが与える平安を人生の土台としていただけたら幸いです。

上里キリストチャペル
大塚 歩


まだ間に合う人生の選択

2020-09-20

皆様、こんにちは。今回は「まだ間に合う人生の選択」というテーマで聖書からお話をします。

 最近、こんな会話がありました。
昔のことを思い出すと、あっという間に年月が経ってしまい、年を取ってしまったと感じる。振り返ると「ああすればよかった。こうすれば良かった」と思う。皆さんはどうでしょうか。

私たちは過去に戻ってやり直すことができません。その人の人生は神様によって一人一人に与えられています。また、どう生きるかは私たちの選択にかかっています。

皆さんは1年間に自殺をする人が何人くらいいるかご存知でしょうか。警視庁の統計によりますと一番多い時には34427人もの人が尊い命を絶っています。人生に疲れ果て悔やみ絶望し命を絶っているのです。

神様はこのようなことを望んでいるのでしょうか。いいえ違います。神様は私たちに幸いな人生を与えているのです。もし神様に目を向けるなら変わっていたのではないかと思います。

聖書に、「12年もの間、病気になっていた女の人がイエス様に出会い癒された」出来事があります。(マルコの福音書5章25~34節)この人は多額のお金を注ぎ込み医者にかかりましたが、何のかいもなく、むしろひどくなる一方でした。毎日が苦しくてたまりません。今で言えば自殺寸前状況かもしれません。しかし、イエス様のうわさを聞きました。イエス様なら救ってくださるという信仰を持って、着物に触れたのです。そうしたらなんと病気が一瞬で治ったのです。この女の人は良い選択をしたと思います。

私たちの人生は海に浮かんでいる舟のようです。穏やかな時もあれば、嵐の時もあります。神様は私たちを苦しめるために命を与えて生かしておられるのではありません。神様は私たちを愛しています。私たちが自分勝手に歩み神様を無視して不幸にしています。まだ間に合います。
 それは、この女の人が良い選択をしたようにあなたも良い選択をすることによって、あなたの人生が幸いなものになります。

 続けて聖書の話を聞き、この素晴らしいイエス様を知って頂きたいと思います。心からお勧めします。


上里キリストチャペル
大塚高男


『永遠のいのち』について考える

2020-09-13

 今回は「永遠のいのち」をテーマにして聖書の中から一緒に考えていきたいと思います。
私たちは、今、新型コロナウイルスによって人と人との接触が制限されています。新型コロナウイルス感染症が全世界に広がったことによって、これまで、マスクをする習慣のない世界中の人がマスクを常時するようになっています。以前なら考えられないことでした。そして、あらゆるプロスポーツはソーシャルディスタンスによって観客を制限されたり、無観客で開催することを余儀なくされています。このように、私たちは今、人と人との接触が制限されるなど大きな影響を受けています。また、要請や強制によって外出が制限され、そのことによって人と人との交流、交わりが希薄になってしまいました。

 本来、人は愛し合い、交流する者として神が造られました。そして、天国においては愛に溢れた交流が永遠に続くと聖書は語ります。永遠のいのちが語られる天国では、人と人との交流も愛に溢れたものとなります。そこでは罪や死の問題が取り除かれているからです。
しかし、この現実の世界は、新型コロナウイルスをはじめとする様々な事象により、罪と死の問題に直面しています。新型コロナウイルスは死の恐怖が伴うからこそ恐れられているのであって、死を伴わないなら恐れることはありません。また、それは死の恐怖だけでなく、経済的損失、情報の錯綜などによって、人と人、国と国との間に多くの問題を引き起こしました。これらは疑惑、身勝手さ、暴力、差別、貪欲といった人間の内にある罪の問題から来ています。あらゆる災害、疫病、飢餓、貧困、戦争の問題の背後には、この罪と死の問題があります。罪と死は、すべての人類の敵といえます。
しかし、聖書は、この敵に勝利してくださった方を教えてくれます。イエス・キリストです。

イエスの十字架を見てみましょう。十字架は生身の人間を裸にし、杭のような三本の釘で木に打ち付ける、非常に恐ろしい刑です。これを執行したローマ人にはこの刑は適用されませんでした。人格の否定だからです。それは、公衆にさらされ、肉体的にも、精神的にも耐えられないほどの辱めと、激しい渇きと、苦痛を伴いました。
イエスと共に十字架付けられた二人の犯罪人たちはその苦痛の中から叫びました。「おまえはキリスト(救い主)ではないか。自分とおれたちを救え」、イエスを十字架に付けた者たちも叫びました。「あれは他人を救った。神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」。イエスも叫ばれました「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのかが分かっていないのです。」と。そして、十字架の上で、イエスは死んだのです。
このイエスの死は、身代わりの死です。本来罪のない方(イエス)が罪人の身代わりとなって、死んでくださったのです。そして、罪と死を打ち破って三日目によみがえられました。

「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(聖書)
 この方を信じて、救いを得て、永遠のいのちをご自分のものとされますようお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


イエスの時とは?

2020-09-06

 ここ数年、毎年のように夏が異様に暑く、また台風を含めた水害がやってきます。地震も頻繁に起こり、そして今はコロナ禍です。そんな不安な時代にあって揺るぎなきものというのはあるのでしょうか?今日は聖書の言葉から考えていきたいと思います。
"イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。
わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」
そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。"
ヨハネの福音書 7章28~30節
 約二千年前の出来事です。“あなたがた”とはユダヤ人を指しています。イエスはご自身を、天地万物を造られた創造主なるお方、全知全能の神より遣わされたと証言しています。ユダヤ人から反感を買ってしまったイエスは捕らえられようとしました。でもまだ「イエスの時」ではないとあります。「イエスの時」とはいつでしょうか?この約半年後、イエスは実際に捕らえられます。鞭打たれ十字架で処刑されました。何の罪もないお方が。それは私たちの身代わりだったのです。イエスは死なれ、3日後に復活されました。私たちはこのイエスにこそ揺るぎない希望があることを知らなければなりません。
 宗教改革者で有名なジャン・カルヴァンはこう言いました。「イエス・キリストを通して神を知るのでなければ、真の神を知ることはできない」
 私たちは聖書によってイエスがどういうお方かを知ることができます。聖書に次のような言葉があります。
"神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。"
テモテへの手紙第一2章4~6節
 コロナ禍でまた、水害が頻繁に襲ってくる不安な時代の中で、イエスを通して真の神を知り、定められた時に私たちの罪の贖いを完成させてくださったイエスを救い主として信じ受け入れ幸いな人生を歩むことができますようにお勧めいたします。

上里キリストチャペル
清水 充


逆転人生に導かれた女性

2020-08-30

いつもこのページを見てくださりありがとうございます。

今日は、新約聖書のヨハネの福音書4章に書かれていることを見たいと思います。

「サマリアの女」の記事で、1節から42節までです。
この女性は結婚生活に何度か失敗してしまい、生活にも疲れてしまっていたようです。

4節 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
→物理的な制約ではなく、イエスは目的を持ってサマリアに向かわれたとこが分かります。ある女性に会うためにサマリアへ行かなければならなかったというわけです。
人が神と出会うのは偶然ではなく、神があなたに会うために近づいてくださるのです。

7節でイエスが、「わたしに水を飲ませてください。」と声をかけて女性との会話がスタートしました。

13節から14節
この井戸の水を飲んでもまた渇くが、わたしはいつまでも渇くことがない永遠のいのちへの湧水を与えることができると、イエスは女性に語りました。

16節から26節
女性はその水を下さいと願いましたが、イエスはその前にあなたの夫を連れて来なさいと言われ、この女性の問題となっている点に触れました。イエスはこの女性を問題から解放するためにこう言われたのでした。
女性はイエスとの会話を通し、自分たちは救い主メシアの到来を待ち望んでいると言いましたが、イエスは、わたしがそのメシア(=キリスト)であると示しました。
女性はイエスを信じました。それからは、もう町の人を恐れることもなく、生き生きと生活することができました。

今日のストーリーをまとめてみますと、
(1)神が私たちに近づいてくださる。
(2)神は私たちに永遠のいのち(=救い)を与えることができる。
(3)永遠のいのちを得るためには、問題(=罪)が解決される必要がある。
(4)イエスを自分の救い主と信じる者は永遠のいのちを持つ。
ということが分かります。

神様の前に素直になり、自分に語りかけられる神様からのメッセージに応答していただきたいと思います。
いつまでも渇くことがない、永遠のいのちへの水が湧き出る水を、あなたもイエス様に求めてください。
神様の豊かな恵みを味わっていただきたいと思います。

上里キリストチャペル
久保 哲


空しい生き方からの解放

2020-08-23

皆様、こんにちは。今回は「空しい生き方からの解放」というテーマで聖書からお話をします。

8月というと皆さんは何を思い浮かべますか。
夏休み、お祭り、花火大会、帰省、お盆休みなど人それぞれと思います。
今日はその中の「お盆」について少し考えてみたいと思います。

先日、親戚の関係で「新盆」に行きました。お坊さんのお経の後に説法があり、お盆の意味についてでした。
「お盆は苦しんでいる先祖を迎え供養するものです」と話されていました。私は聴いて思いました。「死んだ人は皆 苦しんでいるのか。」
色々と調べてみると苦しんでいる所は「地獄」で、お盆の時に一時的にこの世に帰ることがゆるされるというものでした。

人は死んた時に成仏するようにお経をあげているのに皆地獄に行っている。お盆の時だけ迎え、終わったらまた送り返す。これって矛盾しているように思いました。
皆さんはどう思いますか。

私たちは普段、その意味を知らず行っている事が多いのではないでしょうか。

このお盆の由来は「本当の事」なのでしょうか。色々と調べてみると由来がありますが、作り話のように思います。私たちは昔からの習慣で行っているようです。その習慣に縛られ窮屈な生き方になってはいないでしょうか。

聖書 ペテロの手紙第一1章18節にこう書かれています。
「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖いだされたのは、金や銀のような朽ちる物によらず」とあります。
「先祖伝来のむなしい生き方」を皆さんはしていませんか。本当のことであれば良いのですが、そうでない、ただの作り話を本当のように信じ、時間とお金を使っていませんか。それは空しい生き方だと聖書は言っています。私も以前は同じように生きていたのです。しかし、聖書に出会い「本当のもの、真実なもの」を手に入れました。
それは、先祖伝来の空しい生き方から解放され、自由に真に喜びと感謝にあふれた生き方に変えられたのです。
聖書 ペテロの手紙第一1章19節にこう書かれています。
「傷もなく、汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によってのです。」イエスキリストを知ることによって空しい生き方から変えられたのです。
あなたもイエスキリストに出会い真に素晴らしい生き方をしませんか。
心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
大塚高男


罪人を招くため

2020-08-16

連日猛暑が続きます。いかがお過ごしですか。
今日のテーマは「罪人を招くため」です。聖書箇所はマルコの福音書2章17節です。
「これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。』」

これはイエス様が、当時「罪人」と呼ばれ蔑視されていた人たちと一緒に食卓についていたことを、律法学者(当時の指導者)たちが批判したことに対して言われたことばです。

さて、イエス様はここで「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。」と言われましたが、これは、よくわかります。元気な人はお医者さんは必要としません。お医者さんを必要とするのは病人です。
自分は丈夫で医者知らずだから絶対に大丈夫だと思っている人は、もし自分の内に巣くう病気があってもお医者さんには行かないでしょう。しかし、病気は確実にその人をむしばみ、そして、気付いた時にはすでに手遅れということになります。

同じように、私たちの内に巣くう罪がわからなければ、イエス様は必要ないのです。いや、必要ないと思ってしまうのです。
罪人にはイエス様による救いが必要です。イエス様は、そのために来た、と言われました。どういうことでしょうか。

聖書は、はっきりとすべての人の内に「罪」があることを告げます。そして、この「罪」は、すべてものの創造主であり、私たち一人ひとりをも造られた神様を無視した生き方から来ていると言います。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ人への手紙3:10-12)

すべての人が「罪人」であると聖書は言います。例外はないのです。
その罪人を招くためにイエス様はこの世に来てくださいました。
イエス様がこの世に来てくださったのは、罪人を招き、罪の赦し、滅びからの救い、永遠の命を与えるためであります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)

ぜひ、イエス様の招きに答えて、罪の赦しと、永遠のいのちをご自分のものとしてくださいますよう心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


永遠に生きる

2020-08-09

 いつもお読みくださっている皆さん、こんにちは。
今日は上記のタイトルでのお話です。お読みください。

 さて、8月1日の新聞に日本人の平均寿命が載っていました。男性81.41歳、女性87.45歳だそうです。世界で比較すると、男性は、香港、スイスに続き3位、女性は香港についで2位とのことです。明治の日本人の平均年齢が男女とも50歳以下だったことを考えるとだいぶ長生きとなりました。私たちは「健康で長生きしたい」と考えます。そのためには、日々の軽めの運動、バランスの良い食事、ストレスを少なくした生活スタイルがその秘訣といえるでしょう。
 ところで、今回のタイトルは「長く生きる」ではなく「永遠に生きる」です。実は、聖書では、人間は「肉体と霊」から成り、死ぬと肉体は土に帰り、霊は神のもとに帰る、と教えています。つまり、人間は死んで終わりではなく、その霊は永遠だ、と言うのです。さらに、この地上でどのように生きるかによって、永遠に幸福に生きるか、そうでないかが決まる、と言うのです。
 天国に行くことができるのは罪の無い人ですが、人間は、聖書によれば、全て罪人であり、そのままでは、誰ひとり天国に行くことはできません。
 そのために、罪の無い神のひとり子のイエス・キリストがこの地上に来てくださいました。そして、私たちの罪をその身に背負い、身代わりとして十字架上で裁かれ死ぬことによって、私たちの罪を全て取り去ってくださいました。そして、このイエスをあなたが「私の救い主」と信じることによって、あなたは罪の裁きから解放されるのです。信じる者は、死後、罪の裁きにあうことなく、天国へ行くことができると言うのです。これこそが「永遠に生きる(=天国で生きる)」秘訣となります。
 如何でしょうか。あなたもイエス・キリストを信じ、天国で永遠に生きる希望を持ちつつ、この地上を安心して生きてみませんか。
 
 是非、これからも聖書の福音をお聞きになって救われてくださる様、お祈りいたします。

上里キリストチャペル
市川 忍


神を信じるということ

2020-08-02

 「目から鱗が落ちる」とは、「あることをきっかけとして、急にものごとの真相や本質が分かるようになる」という意味のことわざですが、このことわざは聖書の次の物語が由来になっています。
 
 パウロは、旧約聖書を学び、神の教えを守ることに大変熱心な人物でした。イエスの弟子たちが広めていた「イエス様は旧約聖書に預言されている神の子キリストである。」という教えは間違っていると考え、それをやめさせることが神に喜ばれることだと信じていました。そして、イエスを信じる人たちを迫害し、捕まえては牢屋に入れていました。
 しかし、信者を捕まえるために向かっていた道の途中で突然、天からのまぶしい光に照らされ、地面に倒れ、「なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きます。「あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。ダマスコの町に入りなさい。あなたがすべきことが告げられる。」と答えがありました。やっと立ち上がったパウロの目は見えなくなっていました。
 ダマスコの町に入り、三日間何も食べずに祈っていたパウロのもとに、アナニアというイエスを信じる弟子が訪ねてきました。アナニアにも、イエスから語りかけがあったというのです。アナニアがパウロの頭の上に手を置いて祈ると、パウロの目から鱗のような物が落ちて、再び目が見えるようになりました。まさに、「目から鱗が落ちる」経験でした。
 
 パウロはイエスを信じ、バプテスマを受け、「イエス様こそ神の御子であり、私たちの救い主です。」と、人々に命がけで宣べ伝え始めました。イエスと出会い、まったく新しい人へと変えられたのです。
 
 そんなパウロが、『ローマ人への手紙』の中で次のように語っています。
 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(3章23節)
 「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(6章23節)
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(5章8節)

 私たちには、自分でどうすることのできない罪の問題があります。しかし、イエス・キリストはそんな私たちのために死んでくださったのです。それは、私たちが死によって滅びることなく、天国で神と共に過ごすためでした。神を信じるということは、神と共に生きる決心をすることです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」。ぜひ、神様からの愛を受け取っていただければと思います。
上里キリストチャペル
坂藤頌一


人の罪と神の愛

2020-07-26

 今日は、聖書にあって他の本には書かれていない「人の罪と神の愛」について考えたいと思います。
 
 法律を犯すことが罪であるのは言うまでもありませんが、日本人特有の気質として、「人に迷惑をかけることは悪い。しかし、人に迷惑をかけないのであれば、あるいは人目に触れないのであれば、多少の不正は問題ない。」という意識があるように思います。では、聖書が示す罪は、どういうものを指すのでしょうか。新約聖書のコロサイ人への手紙1章21~22節に、このように書いてあります。

(21節)あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
(22節)今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
 
 21節から、罪が三つの面を持っていることが分かります。すなわち、第一に「神から離れ」とある「神に対する態度の罪」、第二に「敵意を抱き」とある「心の罪」、第三に「悪い行いの中にありました」とある「行いの罪」です。
 人はなぜ悪い行いをするのでしょうか。それは、心に悪い思いを持つからです。これは、一般に理解されていることだと思います。それでは、なぜ人は心に悪い思いを持つのでしょうか。聖書は明確な答えを持っています。すなわち、「人が悪い思いを持つのは、神に信頼せず、神に背を向けて生きていることによる」というのが、聖書の答えです。罪の根本的な問題は神に対する態度にあり、そこから罪が人の心に及び、それが行ないとして現れるというのが、聖書が述べるところです。

 聖書は、全ての人が罪を持っていると語る一方で、どんなに大きな罪を犯した人でも、神の目には尊い存在だと言っています。神は、母親の胎にいる時から一人一人を目にかけてくださり、神を知ることができるように働きかけ、罪を赦そうとされるほどに、全ての人を愛していると言うのです。
 その証拠は何なのでしょうか。それは、神の御子イエス・キリストが、全ての人が犯す罪の罰を身代わりに受けることで、私達の罪を赦してくださることです。22節にあるとおり、神は御子イエス・キリストの死によって、私達を罪のない者として扱おうとされました。イエス・キリストが十字架にかかって死んだのは、神が全ての人の罪を赦そうとしていること、一人一人を愛していることの証明なのです。
 神は、私達に罪という大きな問題があると語ると同時に、その私達を愛し、何にも代えられない価値を見出しています。罪の赦しを得るために私達がすべきことは、自分の罪を認め、イエス・キリストによる救いを受け入れることだけです。私達を愛し尊重してくださる神を知り、自分が罪人であることを認めていただくことを心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚 歩


真に生きる力

2020-07-19

 私たちは今、大変な時代に生きています。疫病の蔓延、異常気象による水害、地震、津波、イナゴによる食糧危機、経済の破綻、戦争のうわさ、ともすればそれらの情報に翻弄されて不安に捕らわれてしまいます。
聖書には(第二テモテ3:1-5)「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。」とあり、また、(マタイ24:12)「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」と書いてあります。
今回の新型コロナによって、人や国のエゴがあぶり出されたと言われていました。そのような時代に、私たちの「生きる力」はどこからくるのでしょうか。
 また、これからの時代は、前述のような苦難が続けて起こってくる可能性が高くなってきたと言えるのでしょう。
 そのような時に、私たちは「真に生きる力」を持っているでしょうか。確かな、動かされないものを持っているでしょうか。
今から二千年前、イエス・キリストは十字架に架かられる苦難をあらかじめ知っておられ、ゲツセマネの園で、その苦難のために祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と、血の滴りのような汗を流して三度も祈られました。しかし、三度目に「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。」と言って十字架に向かわれました。
 イエス・キリストの十字架は、私たちのすべての罪を贖うための身代わりの死でした。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」十字架上のイエスの言葉です。父なる神はこの方を、三日目に死者の中からよみがえらせました。
すべての絆の元である神は、罪と死に打ち勝ったイエス・キリストによって、永遠の希望を私たちに与えてくださったのです。是非、この方を信じて、イエス・キリストを自分の救い主として心に受け入れてくださることを、お勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二


キリストのもとへ

2020-07-12

皆さんは、連続テレビ小説「エール」を見ていますか?今は再放送になっていますが、今回子供の頃から好きだった古関裕而さんがモデルということで、録画して見ています。私は小学生の頃から高校野球好きそれから巨人ファンでした。江川問題、桑田問題を経て阪神ファンになりました。また、オリンピックが始まると夜中でも見てしまいます。そこまで言えば古関さんの名前が出てくるでしょう。「栄冠は君に輝く」「闘魂込めて」「六甲おろし」「東京オリンピックマーチ」の作曲者です。古関さんは時代に流されるままに、戦時中はたくさんの軍歌を作りました。「勝ってくるぞと勇しく」で始まる「露営の歌」も古関さんの作曲です。戦後自分の作った曲で多くの若者を戦地へ送ってしまったことに心を痛めました。そして、戦争で傷ついた人たちの心を少しでも慰めようとして作った曲が「長崎の鐘」でした。
今回はもう一人、やはり戦争で心を痛めた人を紹介したいと思います。新幹線の開発に携わった三木忠直さんです。三木さんは初代新幹線、通称0系の先端のデザインを設計したことで知られる人です。20年前NHKのプロジェクトXという番組で私も知りました。三木さんは戦時中、特攻兵器「桜花」の設計開発した人なのです。その特攻兵器に乗って多くの若者達が死んでいったのです。終戦後、罪責感に苦しんでいた三木さんは教会へ行き聖書の言葉に触れました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイの福音書 11章28節
三木さんはクリスチャンになりました。キリストのもとへ行ったのです。
私たちはうわべだけの御利益宗教ではなく、私たちを造られたお方、その方に遣わされたお方、神ご自身であるキリストのもとへ行く以外に真の解決はないのです。皆さんの中に多かれ少なかれ罪責感に苦しみ悩んでおられる方がいると思います。是非、キリストのもとへ行かれることをお勧めいたします。

上里キリストチャペル
清水 充


放蕩息子のたとえ

2020-07-05

17世紀のオランダ人画家レンブラントをご存じでしょうか?
彼が描いた作品に「The Return of the Prodigal Son」というタイトルの絵があります。(文末掲載)
日本語に訳すと「放蕩息子の帰還」というタイトルになります。
この作品は聖書の一場面をモチーフに描かれました。

新約聖書のルカの福音書15章11節~32節に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれている個所があります。
イエス・キリストが人々に語られたたとえ話です。
このたとえ話には主に3人の登場人物が出てきます。
父親と2人の息子です。
弟息子が父親に財産の分け前を要求しました。
本来、財産は父親が亡くなってから相続するのが普通ですが、この弟息子は父親がまだ生きているうちに生前分与を求めたのです。
父親は2人の息子に財産を分けてやりました。
すると、それから何日もしないうちに弟息子は家を出て行ってしまいました。
そして、遠い国で自分の好き勝手に生き、財産を湯水のように使い切ってしまいました。
すると、その国で大飢饉が起こり、弟息子は食べるのにも困るようになりました。
弟息子に食べ物を与えてくれる人はおらず、豚のエサで腹を満たしたいと思うまで落ちぶれてしまいました。
そのような状況でこの弟息子は我に返ってこう思ったのです。

『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

弟息子はこのように思い、家に向かいました。
まだ家までは遠かったのに父親は弟息子を見つけ、駆け寄って抱き寄せました。
弟息子は父親の腕の中で謝罪のことばを語りますが、父親はそれをさえぎるようにしもべたちにこう言いました。

『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』

この父親は悔い改めて帰って来た弟息子をとがめもせず、ただただ帰ってきたことを心から喜んだのです。
冒頭で紹介したレンブラントの絵は、まさにこの場面を描いたものです。

このたとえ話の“父親”は“神”を表しており、“弟息子”は“私たち人間”を表しています。
父なる神とその神から遠く離れて罪の中で生きている私たち人間を表しています。
神は私たち人間が罪の中から悔い改め、神の元に帰ってくるのを心から待っておられます。
まさに、このたとえ話の父親のように大きな愛をもって待っておられます。
ぜひ、イエス・キリストをご自分の救い主として信じて神に立ち帰られますことを心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
飯塚ー也


ゆるぎない人生

2020-06-21

皆様、こんにちは。今回は「ゆるぎない人生」というテーマで聖書からお話をします。

だれしもが、人生が豊かで順調に行く事を望んでいると思います。しかし、思い通りに行かない事が多いのではないでしょうか。

今年初め、考えもしなかった出来事が起こりました。それは「新型コロナウイルス」が発生したことです。

これにより、私たちは集まり楽しい会話をすることが出来なくなりました。また、仕事も減り給与が減り、失業や廃業を余儀なくされた人たちもいます。

讃美歌に「人生の海の嵐にもまれきしこの身」という歌詞があります。人生はまさに海であり、思いもよらない嵐が吹き荒れると言えるでしょう。

聖書の中に、「ある時、イエス様と弟子たちが一日の活動を終えて、夕方、ガリラヤ湖の向こう岸に行こうとして舟を乗り出したところ、突然、激しい突風に遭う」という大変な事に出会ったことが書かれています。(マルコの福音書4章35~41節)

弟子たちの中には漁師もいました。少しぐらいの嵐にはびくともしませんが、今回は「命が危ない!」と思うほどのものすごい嵐だったのです。波が舟の中にたくさん入って来たのです。しかし、こんな大嵐に平安をもって「眠っていた人物」がいました。イエス様です。

弟子たちは悲痛な叫びでイエス様に「先生、私たちが死んでもかまわないのですか」と言いました。イエス様は起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、すっかりなぎになったのです。イエス様が一声かけただけで風や湖が静かになったと言うのです。普通ありえませんが、この時は別でした。なぜなら、イエス様は「神の子キリスト」だからです。

私達は人生が順調にいっている時はあまり考えないものですが、いざ、問題が起こると、慌てふためき困惑します。「なぜ? なぜ? なぜ?」と思うのです。イエス様は嵐の中で命の危険にあっても「平安」でいました。

今回のように失業や廃業した人は働きたいのに働けず生活が出来なきないのです。ストレスがたまり、これから「どうしたら良いのか」と考えこんでしまいます。

イエス様は弟子たちに言われました。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」と。

大変なことが起きたとしても常に平安を持って「ゆるぎない人生」を歩みたいと思いませんか。それは、イエス様に対する信仰(信頼)です。

続けて聖書の話を聞き、この素晴らしいイエス様を知って頂きたいと思います。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男


あなたの罪は赦された

2020-06-14

今日も聖書から考えていきましょう。
なかなか出口が見えない新型コロナウイルスとの戦いが続いています。多くの方が疲れと不安を覚えていらっしゃるのではないでしょうか。

さて、聖書マルコの福音書2章に、中風(脳卒中等で麻痺が残る病)を患った人が出てきますが、彼もまた先の見えない戦いの中で疲れや不安を覚えていた人であったと思います。
彼の仲間たちは、彼を担いでイエス様のところに連れてきます。「この方に会えば必ず何とかなる」と信じたからです。
しかし、最初にイエス様が彼に言われたことばは意外なものでした。

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」(2:5)

イエス様は、その病をすぐに治されたのではなく「あなたの罪は赦された」と言われたのです。
周りで聞いていた群衆のざわつきをよそに、この人の反応は私たちに大切なことを教えています。
続いてイエス様は、彼にこう言って中風を治されます。

「『あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。』すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。」(2:11)

さて、ここで大切なこととは、この人にとって何が本当に重要で本質の問題であったのか、ということです。
彼が治った後の行動を見れば、実に淡々と家に帰った様子が描かれています。この人にとって、最初にイエス様が語られた「あなたの罪は赦された」ということが、彼にとっては本質の問題であり、彼はそれに気づき本当の意味で人生の問題の解決を得たのではないでしょうか。その時点で、もうすでに彼の問題は解決していたからこそ、病がいやされたことは彼にとって二次的な喜びであったため、淡々として寝床を担いで家に帰ったのだと思います。

さて、現代の私たちが抱える問題の本質はどこにあるのでしょうか。
それは、私たちの創造主である神様を無視した生き方から来る「罪」の問題です。
この問題の唯一の解決方法は、イエス様の十字架の贖いによる罪の赦しを受けることだと聖書ははっきり伝えます。

あなたは、この語りかけに、どう応答しますか?
「あなたの罪は赦された」
私たちの罪を赦してくださるために、私たちの身代わりにイエス様を十字架でさばいてくださった神様の大きな愛を受け入れ、変わることのない希望に満ちた人生へと進まれますよう心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


全世界を造られた神がおられる2

2020-06-07

創世記1章1節
「はじめに神が天と地を創造された.」

皆さん、こんにちわ。今回も、先週に引き続き、同じテーマで考えてみたいと思います。

ところで、皆さんは、上記の聖書の言葉を読んだ時に、「そんなことはないな。」または、「バカらしい考えだ。」と感じた方もいると思います。
なぜ、そう感じたのでしょうか?
それは、皆さんがこれまで受けて来た教育によります。
実は日本の教育は、小学校から大学まで「進化論」が根底になって構築されています。
ご存知でしたか?例えば、中学校の社会では、進化の過程として猿人が生まれて来たことを教えています。理科では、進化論が一つの「理論」であるにもかかわらず、あたかもこれこそ真実の考え方であるかの様に取り扱われています。「系統樹」という進化の過程を木の成長に模して表した図を思い出す人も多いのではないかと思います。
ある時偶然に一つの細胞が生まれ、その細胞が増え多細胞へ、そして、最後には人間へと繋がっていくと教えられて来ました。
ですから、この聖書の言葉を聞くと、反射的に「間違っている。」と感じてしまうわけです。

しかし、考えてみてください。無から有が生まれるのでしょうか? 0に幾つを掛けても0である様に、無から有は生じないのです。また、進化の重要な過程は「突然変異」と言われていますが、現代の「細胞レベル・染色体レベルでの解析」から、それは無理があることは明らかなのです。

進化論的に考えるならば、「私が生まれて来たのも偶然、生きる目的も不明瞭、死ぬのも偶然」となります。

しかし、聖書は「神が造られた」と言います。そして、「あなたは、神に愛されて、神の豊かな選びの中でこの世界に生まれて来た。」と教えます。人は、この「創造主=神」を知る時にそこで人生が変わります。例えてみると、白黒の映像が、突然カラー映像になる如くです。

今は「コロナ災害の時期」です。どうか、この様な時にこそ「私を造られた創造主=神とは、どんな方なのか」について、考えてみませんか?

このメッセージは、これからも続きます。是非続けてご覧ください。また、チャペルで午後の集まりが再開された時には、是非上里チャペルの「BCH(バイブルコーヒーアワー)の時間」に来場されることを期待しています。

上里チャペル
市川 忍


全世界を造られた神がおられる

2020-05-31

創世記1章1節
「はじめに神が天と地を創造された。」

この世界はどのようにしてできたのか。その疑問に、聖書ははっきりと答えています。
私たちの住む地球、太陽や月、それら含め20億個の星をもつ銀河系、さらにその銀河が1000億個以上もある広大な宇宙。
また、私たちが住む地球上のあらゆるもの、まだ知られていないものも含めると870万種いるといわれている生物、空気や水、そして、37兆個もの細胞でできている人間。
すべてのものは偶然にできたのではなく、神が目的をもって造られた、というのです。そのことにどんな意味があるでしょうか。それは、私たちが偶然に生まれた価値のない存在ではなく、私たちは神が私たちを創造しようと決心なさったほど、神の目に尊い存在だということです。

イザヤ書43章4節
「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」

神は私たちを愛しています。そして、私たちが神の永遠の故郷である天国へ行って神とともに住むことを望んでおられます。そのために、神は十字架によって私たちの罪の代価を支払うことで、天国に行くことを可能にしてくださったのです。
神が人間を造った最も大きな目的は、愛による交流をもつためです。神は人間を考える存在として特別に造り、自由意志を与えられました。したがって、人間は何かをしたり、しなかったりする自由を持っています。

私の好きな聖書のことばに、次の箇所があります。

詩篇19篇1~4節
「天は神の栄光を語り告げ
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え
夜は夜へ知識を示す。
話しもせず 語りもせず
その声も聞こえない。
しかし その光芒は全地に
そのことばは世界の果てまで届いた。」

全世界を造られた力ある神がおられます。そして、神は私たちを愛してくださっています。ぜひ、神の愛に応えて、神とともに歩む人生を選択していただければと思います。

最後に、宇宙飛行士のジェームズ・アーウィンのことばを紹介します。

「地球は宇宙の暗闇に浮かぶクリスマス・ツリーの飾りを思い起こさせてくれる。
遠ざかれば遠ざかるほど小さくなり、遂にはビー玉ほどのサイズになる。
想像できないほど美しいビー玉だ。この美しく、温かく、生きた物体は非常に壊れやすく、繊細に見え、指で触れれば、砕け散ってしまいそうだ。
これを見た人間は変えられ、神の創造と神の愛を感謝せずにはいられなくなる。」

上里キリストチャペル
坂藤頌一


わたしの心だ、きよくなれ

2020-05-24

「わたしの心だ、きよくなれ」

今日も、ご一緒に聖書から考えてみましょう。

今、私たちは新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされていますが、今から2千年前イエス様がおられた時代にも感染症はありました。これはイエス様と出会った感染症患者が癒やされたという記事です。

「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。『お心一つで、私をきよくすることがおできになります。』
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」(マルコの福音書1章40節~42節)

このツァラアト(重い皮膚病)という病は当時不治の病として特に恐れられていました。また、当時のユダヤ人社会では宗教的汚れを嫌い、その汚れた者にさわればその人も汚れるとされ、コミュニティーから完全に排除されて一生を終えなければなりませんでした。いわゆる隔離政策です。

ここで、イエス様は当時では考えられない行動をします。「彼にさわった」のです。これはイエス様自身もユダヤ人社会から排除されてしまう危険をはらんでいました。しかし、イエス様は彼にさわって癒やされたのです。

このことは、イエス様の愛のご性質をよく表しています。感染や汚れ、人々から排除される恐れがあったにもかかわらず、彼を深くあわれみ彼の患部をさわって癒されたのです。
もちろん神であるイエス様は、さわることはせずに「ことば」をもって癒やすこともできました。しかし、あえて彼に「さわり」癒やされたのです。
本当にイエス様の深いあわれみと愛がよく表された記事だと思います。

さて、そのイエス様の愛の究極の現れは何でしょうか。それは、聖書のメインテーマである「私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださった」という事実です。

聖書は、私たちが創造主である神様を忘れた結果、「罪」を持つ者となったと語ります。身体の病は私たちが生きている間だけのことですが、心の病である「罪」は永遠に私たちを苦しめる病であります。この心の病の癒やし、完全な罪の赦し、永遠のいのちを与えるために、神様は、救い主イエス様を送ってくださったのです。

今日、イエス様は、あなたの心にも語りかけています。
 「わたしの心だ。きよくなれ」
ぜひ、この罪の赦しと永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫


神と共に歩む確かな人生

2020-05-17

 このホームページを見てくださる皆様、こんにちわ。今回も聖書の話をお聞きください。

 ところで、高校時代、授業で先生が「◯◯君、もし、無人島で、1冊しか本が持っていけないとしたら、どうするかな?」と聞きました。彼は「聖書を持っていきます。」と答えました。次の生徒も同様に答えました。先生は「なるほど、みんないいこというな。」と言い、授業は進みました。何げない一コマでしたが、私は、「聖書って大事なのだ。」と感じたことを覚えています。その後、私は、アメリカ人宣教師に出会い、聖書の紹介するまことの神を信じ、クリスチャンとなりました。今、50年が経ち、確信を持って言えることは「全ての人にとって聖書の話(福音)はいのちの次に大事なものだということです。」

 さて、聖書の中に
「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売してもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。
あなたがたは、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間、現れて、それで消えてしまう霧です。
あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私達は生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」というべきです。(新約聖書:ヤコブの手紙5章13節~15節)
という箇所があります。

「明日のことは、分からない。」ということが今の実感ではないでしょうか。
現在、コロナの疫病で世界中が止まってしまいました。誰が、このような世界を想像したでしょうか? 明日の確実な保証は誰にもないのです。

上記の聖書の言葉で注目は後半の「主のみこころであれば…」です。主とは神のことです。私達は神にあっていのちの保証があり、安心して日々過ごすことができる。というのです。

聖書の紹介する神は、罪を犯した私達のためにイエス・キリスト(救い主)をこの地上に送ってくださり、イエスが十字架にかかり、私達の罪の身代わりに死んでくださったことにより、信じる者を罪の滅びより救ってくださる。と約束された方です。

 今は、まさに先の見えない時代です。しかし、「神を信じ、神と共に歩む」ことで安心した確かな人生を歩むことができるのです。

上里キリストチャペル
市川 忍


命がけであなたを愛していてくださる神

2020-05-10

最初に聖書のことばをご紹介いたします。

ペテロの手紙第一 1章18節から19節
「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

ペテロの手紙第一 3章18節
「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」

初めて聖書のことばに接する方には難しいかもしれません。しかし、私たちに近づいてくださる神様のメッセージとして、このことばを味わっていただきたいと思います。
私たちが生まれ育った日本では「聖書」に触れる機会がほとんどありません。学校の授業でも、日本の生活習慣の中でも、聞くことも見ることもほとんど稀です。
しかし、今このメッセージを見てくださっているあなたは、今日、聖書のことばに接しています。このページにアクセスしてくださり本当にありがとうございます。
是非、神様について知っていただきたいと思います。

ポイントを箇条で記します。
①生まれながらの生き方は、拠り所がなく、不安定である。
②私たちを贖ってくださるために、神であるキリストが犠牲となってくださった。
③キリストが十字架につかれたのは、正しくない人、すなわち私たちの身代わりとしてであった。
④キリストの十字架を通し、私たちは神の下に霊的に生かされた者となり、神様との生きた交わりが回復される。

今までに神様を知る機会が少なかったと思いますが、実は、神様は命がけであなたのことを心配してくださり、愛してくださっていたのです。
神様が造られた自然や、私たち人間の体やいのちを見るときに、神様について知ることができます。
聖書を通しても神様を知ることができます。
ただし、そのような神様について考えられるチャンスを見過ごしてしまうと、神様を知ることができません。
今日、このメッセージを通して、また聖書のことばを通して、静かに立ち止まり、神様に向き合って、神様の語りかけに耳を傾けていただきたいと思います。

私は、この神様を知ることができ、信じることができ、いつでも神様に寄り添いながら歩むことができる幸いを本当に感謝しています。
神様はあなたにも近づいてくださっています。
神様からの恵みがあなたとともにありますように、お祈りしております。

上里キリストチャペル
久保 哲


バナースペース

   

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