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2024-07-07
なぜ教会では、いつも罪について語られるのでしょうか。それは、全ての人が罪の問題を抱えていることが、聖書に明確に記されているからです。日本では、道徳や法律に反する行為が罪とされます。個々の不正な行為が罪と見なされるのです。聖書も不正な行為を罪としていますが、さらに全ての人が持つ、そうした行為を行ってしまう性質自体を罪と呼んでいます。
歴史的に有名な宣教師パウロは、自分を例にとって罪について語っています。
私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。(ローマ人への手紙7章19~21節)
パウロは、自分が望む善行ではなく、望まない悪行をしてしまう自分の性質に悩みました。彼は人間を、罪という主人に支配された奴隷のようだと述べています。罪を犯すから罪人なのではなく、罪の奴隷であるために罪を犯してしまう、と言うのです。
聖書における「罪」という言葉の元々の意味は、「的・目標・道を外す」です。したがって罪とは、「神が人に定めた目標を外す生き方」と言えます。神が人に定めた目標は、聖書では「律法」と呼ばれています。律法は神の教え全体を指し、神と人に敬意を払い、愛するための教えです(※マタイの福音書22章37~40節を参照)。つまり罪とは、神と人に敬意を払い愛することから外れた生き方を意味します。神や人に敬意を払わず、自己中心的に生きることは罪であり、私たちをそのようにさせるものが罪なのです。
ところでパウロは、罪を嘆くだけでなく、罪の解決についても述べて感激の想いを記しています。
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ人への手紙7章24~25節)
パウロは、全ての人が抱える罪の問題について書きましたが、それはイエス・キリストによる解決があることを伝えるためです。罪のない者として生まれた神の子イエスだけが、罪ある私たちを救うことができるのです。
教会では、解決方法があるからこそ罪について語ります。イエス・キリストによる罪の解決を知っていただくことを、心からお勧めいたします。
上里キリストチャペル
大塚 歩
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