聖書ワンポイントメッセージ
2020-09-20 「まだ間に合う人生の選択」
2020-09-13 「『永遠のいのち』について考える」
2020-09-06 「イエスの時とは?」
2020-08-30 「逆転人生に導かれた女性」
2020-08-23 「空しい生き方からの解放」
2020-08-16 「罪人を招くため」
2020-08-09 「永遠に生きる」
2020-08-02 「神を信じるということ」
2020-07-26 「人の罪と神の愛」
2020-07-19 「真に生きる力」
2020-07-12 「キリストのもとへ」
2020-07-05 「放蕩息子のたとえ」
2020-06-21 「ゆるぎない人生」
2020-06-14 「あなたの罪は赦された」
2020-06-07 「全世界を造られた神がおられる2」
2020-05-31 「全世界を造られた神がおられる」
2020-05-24 「わたしの心だ、きよくなれ」
2020-05-17 「神と共に歩む確かな人生」
2020-05-10 「命がけであなたを愛していてくださる神」
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2020-09-20
「まだ間に合う人生の選択」

皆様、こんにちは。今回は「まだ間に合う人生の選択」というテーマで聖書からお話をします。

 最近、こんな会話がありました。
昔のことを思い出すと、あっという間に年月が経ってしまい、年を取ってしまったと感じる。振り返ると「ああすればよかった。こうすれば良かった」と思う。皆さんはどうでしょうか。

私たちは過去に戻ってやり直すことができません。その人の人生は神様によって一人一人に与えられています。また、どう生きるかは私たちの選択にかかっています。

皆さんは1年間に自殺をする人が何人くらいいるかご存知でしょうか。警視庁の統計によりますと一番多い時には34427人もの人が尊い命を絶っています。人生に疲れ果て悔やみ絶望し命を絶っているのです。

神様はこのようなことを望んでいるのでしょうか。いいえ違います。神様は私たちに幸いな人生を与えているのです。もし神様に目を向けるなら変わっていたのではないかと思います。

聖書に、「12年もの間、病気になっていた女の人がイエス様に出会い癒された」出来事があります。(マルコの福音書5章25~34節)この人は多額のお金を注ぎ込み医者にかかりましたが、何のかいもなく、むしろひどくなる一方でした。毎日が苦しくてたまりません。今で言えば自殺寸前状況かもしれません。しかし、イエス様のうわさを聞きました。イエス様なら救ってくださるという信仰を持って、着物に触れたのです。そうしたらなんと病気が一瞬で治ったのです。この女の人は良い選択をしたと思います。

私たちの人生は海に浮かんでいる舟のようです。穏やかな時もあれば、嵐の時もあります。神様は私たちを苦しめるために命を与えて生かしておられるのではありません。神様は私たちを愛しています。私たちが自分勝手に歩み神様を無視して不幸にしています。まだ間に合います。
 それは、この女の人が良い選択をしたようにあなたも良い選択をすることによって、あなたの人生が幸いなものになります。

 続けて聖書の話を聞き、この素晴らしいイエス様を知って頂きたいと思います。心からお勧めします。


上里キリストチャペル
大塚高男
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2020-09-13
「『永遠のいのち』について考える」

 今回は「永遠のいのち」をテーマにして聖書の中から一緒に考えていきたいと思います。
私たちは、今、新型コロナウイルスによって人と人との接触が制限されています。新型コロナウイルス感染症が全世界に広がったことによって、これまで、マスクをする習慣のない世界中の人がマスクを常時するようになっています。以前なら考えられないことでした。そして、あらゆるプロスポーツはソーシャルディスタンスによって観客を制限されたり、無観客で開催することを余儀なくされています。このように、私たちは今、人と人との接触が制限されるなど大きな影響を受けています。また、要請や強制によって外出が制限され、そのことによって人と人との交流、交わりが希薄になってしまいました。

 本来、人は愛し合い、交流する者として神が造られました。そして、天国においては愛に溢れた交流が永遠に続くと聖書は語ります。永遠のいのちが語られる天国では、人と人との交流も愛に溢れたものとなります。そこでは罪や死の問題が取り除かれているからです。
しかし、この現実の世界は、新型コロナウイルスをはじめとする様々な事象により、罪と死の問題に直面しています。新型コロナウイルスは死の恐怖が伴うからこそ恐れられているのであって、死を伴わないなら恐れることはありません。また、それは死の恐怖だけでなく、経済的損失、情報の錯綜などによって、人と人、国と国との間に多くの問題を引き起こしました。これらは疑惑、身勝手さ、暴力、差別、貪欲といった人間の内にある罪の問題から来ています。あらゆる災害、疫病、飢餓、貧困、戦争の問題の背後には、この罪と死の問題があります。罪と死は、すべての人類の敵といえます。
しかし、聖書は、この敵に勝利してくださった方を教えてくれます。イエス・キリストです。

イエスの十字架を見てみましょう。十字架は生身の人間を裸にし、杭のような三本の釘で木に打ち付ける、非常に恐ろしい刑です。これを執行したローマ人にはこの刑は適用されませんでした。人格の否定だからです。それは、公衆にさらされ、肉体的にも、精神的にも耐えられないほどの辱めと、激しい渇きと、苦痛を伴いました。
イエスと共に十字架付けられた二人の犯罪人たちはその苦痛の中から叫びました。「おまえはキリスト(救い主)ではないか。自分とおれたちを救え」、イエスを十字架に付けた者たちも叫びました。「あれは他人を救った。神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」。イエスも叫ばれました「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのかが分かっていないのです。」と。そして、十字架の上で、イエスは死んだのです。
このイエスの死は、身代わりの死です。本来罪のない方(イエス)が罪人の身代わりとなって、死んでくださったのです。そして、罪と死を打ち破って三日目によみがえられました。

「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(聖書)
 この方を信じて、救いを得て、永遠のいのちをご自分のものとされますようお勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二
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2020-09-06
「イエスの時とは?」

 ここ数年、毎年のように夏が異様に暑く、また台風を含めた水害がやってきます。地震も頻繁に起こり、そして今はコロナ禍です。そんな不安な時代にあって揺るぎなきものというのはあるのでしょうか?今日は聖書の言葉から考えていきたいと思います。
"イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。
わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」
そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。"
ヨハネの福音書 7章28~30節
 約二千年前の出来事です。“あなたがた”とはユダヤ人を指しています。イエスはご自身を、天地万物を造られた創造主なるお方、全知全能の神より遣わされたと証言しています。ユダヤ人から反感を買ってしまったイエスは捕らえられようとしました。でもまだ「イエスの時」ではないとあります。「イエスの時」とはいつでしょうか?この約半年後、イエスは実際に捕らえられます。鞭打たれ十字架で処刑されました。何の罪もないお方が。それは私たちの身代わりだったのです。イエスは死なれ、3日後に復活されました。私たちはこのイエスにこそ揺るぎない希望があることを知らなければなりません。
 宗教改革者で有名なジャン・カルヴァンはこう言いました。「イエス・キリストを通して神を知るのでなければ、真の神を知ることはできない」
 私たちは聖書によってイエスがどういうお方かを知ることができます。聖書に次のような言葉があります。
"神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。"
テモテへの手紙第一2章4~6節
 コロナ禍でまた、水害が頻繁に襲ってくる不安な時代の中で、イエスを通して真の神を知り、定められた時に私たちの罪の贖いを完成させてくださったイエスを救い主として信じ受け入れ幸いな人生を歩むことができますようにお勧めいたします。

上里キリストチャペル
清水 充
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2020-08-30
「逆転人生に導かれた女性」

いつもこのページを見てくださりありがとうございます。

今日は、新約聖書のヨハネの福音書4章に書かれていることを見たいと思います。

「サマリアの女」の記事で、1節から42節までです。
この女性は結婚生活に何度か失敗してしまい、生活にも疲れてしまっていたようです。

4節 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
→物理的な制約ではなく、イエスは目的を持ってサマリアに向かわれたとこが分かります。ある女性に会うためにサマリアへ行かなければならなかったというわけです。
人が神と出会うのは偶然ではなく、神があなたに会うために近づいてくださるのです。

7節でイエスが、「わたしに水を飲ませてください。」と声をかけて女性との会話がスタートしました。

13節から14節
この井戸の水を飲んでもまた渇くが、わたしはいつまでも渇くことがない永遠のいのちへの湧水を与えることができると、イエスは女性に語りました。

16節から26節
女性はその水を下さいと願いましたが、イエスはその前にあなたの夫を連れて来なさいと言われ、この女性の問題となっている点に触れました。イエスはこの女性を問題から解放するためにこう言われたのでした。
女性はイエスとの会話を通し、自分たちは救い主メシアの到来を待ち望んでいると言いましたが、イエスは、わたしがそのメシア(=キリスト)であると示しました。
女性はイエスを信じました。それからは、もう町の人を恐れることもなく、生き生きと生活することができました。

今日のストーリーをまとめてみますと、
(1)神が私たちに近づいてくださる。
(2)神は私たちに永遠のいのち(=救い)を与えることができる。
(3)永遠のいのちを得るためには、問題(=罪)が解決される必要がある。
(4)イエスを自分の救い主と信じる者は永遠のいのちを持つ。
ということが分かります。

神様の前に素直になり、自分に語りかけられる神様からのメッセージに応答していただきたいと思います。
いつまでも渇くことがない、永遠のいのちへの水が湧き出る水を、あなたもイエス様に求めてください。
神様の豊かな恵みを味わっていただきたいと思います。

上里キリストチャペル
久保 哲
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2020-08-23
「空しい生き方からの解放」

皆様、こんにちは。今回は「空しい生き方からの解放」というテーマで聖書からお話をします。

8月というと皆さんは何を思い浮かべますか。
夏休み、お祭り、花火大会、帰省、お盆休みなど人それぞれと思います。
今日はその中の「お盆」について少し考えてみたいと思います。

先日、親戚の関係で「新盆」に行きました。お坊さんのお経の後に説法があり、お盆の意味についてでした。
「お盆は苦しんでいる先祖を迎え供養するものです」と話されていました。私は聴いて思いました。「死んだ人は皆 苦しんでいるのか。」
色々と調べてみると苦しんでいる所は「地獄」で、お盆の時に一時的にこの世に帰ることがゆるされるというものでした。

人は死んた時に成仏するようにお経をあげているのに皆地獄に行っている。お盆の時だけ迎え、終わったらまた送り返す。これって矛盾しているように思いました。
皆さんはどう思いますか。

私たちは普段、その意味を知らず行っている事が多いのではないでしょうか。

このお盆の由来は「本当の事」なのでしょうか。色々と調べてみると由来がありますが、作り話のように思います。私たちは昔からの習慣で行っているようです。その習慣に縛られ窮屈な生き方になってはいないでしょうか。

聖書 ペテロの手紙第一1章18節にこう書かれています。
「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖いだされたのは、金や銀のような朽ちる物によらず」とあります。
「先祖伝来のむなしい生き方」を皆さんはしていませんか。本当のことであれば良いのですが、そうでない、ただの作り話を本当のように信じ、時間とお金を使っていませんか。それは空しい生き方だと聖書は言っています。私も以前は同じように生きていたのです。しかし、聖書に出会い「本当のもの、真実なもの」を手に入れました。
それは、先祖伝来の空しい生き方から解放され、自由に真に喜びと感謝にあふれた生き方に変えられたのです。
聖書 ペテロの手紙第一1章19節にこう書かれています。
「傷もなく、汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によってのです。」イエスキリストを知ることによって空しい生き方から変えられたのです。
あなたもイエスキリストに出会い真に素晴らしい生き方をしませんか。
心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
大塚高男
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2020-08-16
「罪人を招くため」

連日猛暑が続きます。いかがお過ごしですか。
今日のテーマは「罪人を招くため」です。聖書箇所はマルコの福音書2章17節です。
「これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。』」

これはイエス様が、当時「罪人」と呼ばれ蔑視されていた人たちと一緒に食卓についていたことを、律法学者(当時の指導者)たちが批判したことに対して言われたことばです。

さて、イエス様はここで「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。」と言われましたが、これは、よくわかります。元気な人はお医者さんは必要としません。お医者さんを必要とするのは病人です。
自分は丈夫で医者知らずだから絶対に大丈夫だと思っている人は、もし自分の内に巣くう病気があってもお医者さんには行かないでしょう。しかし、病気は確実にその人をむしばみ、そして、気付いた時にはすでに手遅れということになります。

同じように、私たちの内に巣くう罪がわからなければ、イエス様は必要ないのです。いや、必要ないと思ってしまうのです。
罪人にはイエス様による救いが必要です。イエス様は、そのために来た、と言われました。どういうことでしょうか。

聖書は、はっきりとすべての人の内に「罪」があることを告げます。そして、この「罪」は、すべてものの創造主であり、私たち一人ひとりをも造られた神様を無視した生き方から来ていると言います。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ人への手紙3:10-12)

すべての人が「罪人」であると聖書は言います。例外はないのです。
その罪人を招くためにイエス様はこの世に来てくださいました。
イエス様がこの世に来てくださったのは、罪人を招き、罪の赦し、滅びからの救い、永遠の命を与えるためであります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)

ぜひ、イエス様の招きに答えて、罪の赦しと、永遠のいのちをご自分のものとしてくださいますよう心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫
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2020-08-09
「永遠に生きる」

 いつもお読みくださっている皆さん、こんにちは。
今日は上記のタイトルでのお話です。お読みください。

 さて、8月1日の新聞に日本人の平均寿命が載っていました。男性81.41歳、女性87.45歳だそうです。世界で比較すると、男性は、香港、スイスに続き3位、女性は香港についで2位とのことです。明治の日本人の平均年齢が男女とも50歳以下だったことを考えるとだいぶ長生きとなりました。私たちは「健康で長生きしたい」と考えます。そのためには、日々の軽めの運動、バランスの良い食事、ストレスを少なくした生活スタイルがその秘訣といえるでしょう。
 ところで、今回のタイトルは「長く生きる」ではなく「永遠に生きる」です。実は、聖書では、人間は「肉体と霊」から成り、死ぬと肉体は土に帰り、霊は神のもとに帰る、と教えています。つまり、人間は死んで終わりではなく、その霊は永遠だ、と言うのです。さらに、この地上でどのように生きるかによって、永遠に幸福に生きるか、そうでないかが決まる、と言うのです。
 天国に行くことができるのは罪の無い人ですが、人間は、聖書によれば、全て罪人であり、そのままでは、誰ひとり天国に行くことはできません。
 そのために、罪の無い神のひとり子のイエス・キリストがこの地上に来てくださいました。そして、私たちの罪をその身に背負い、身代わりとして十字架上で裁かれ死ぬことによって、私たちの罪を全て取り去ってくださいました。そして、このイエスをあなたが「私の救い主」と信じることによって、あなたは罪の裁きから解放されるのです。信じる者は、死後、罪の裁きにあうことなく、天国へ行くことができると言うのです。これこそが「永遠に生きる(=天国で生きる)」秘訣となります。
 如何でしょうか。あなたもイエス・キリストを信じ、天国で永遠に生きる希望を持ちつつ、この地上を安心して生きてみませんか。
 
 是非、これからも聖書の福音をお聞きになって救われてくださる様、お祈りいたします。

上里キリストチャペル
市川 忍
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2020-08-02
「神を信じるということ」

 「目から鱗が落ちる」とは、「あることをきっかけとして、急にものごとの真相や本質が分かるようになる」という意味のことわざですが、このことわざは聖書の次の物語が由来になっています。
 
 パウロは、旧約聖書を学び、神の教えを守ることに大変熱心な人物でした。イエスの弟子たちが広めていた「イエス様は旧約聖書に預言されている神の子キリストである。」という教えは間違っていると考え、それをやめさせることが神に喜ばれることだと信じていました。そして、イエスを信じる人たちを迫害し、捕まえては牢屋に入れていました。
 しかし、信者を捕まえるために向かっていた道の途中で突然、天からのまぶしい光に照らされ、地面に倒れ、「なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きます。「あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。ダマスコの町に入りなさい。あなたがすべきことが告げられる。」と答えがありました。やっと立ち上がったパウロの目は見えなくなっていました。
 ダマスコの町に入り、三日間何も食べずに祈っていたパウロのもとに、アナニアというイエスを信じる弟子が訪ねてきました。アナニアにも、イエスから語りかけがあったというのです。アナニアがパウロの頭の上に手を置いて祈ると、パウロの目から鱗のような物が落ちて、再び目が見えるようになりました。まさに、「目から鱗が落ちる」経験でした。
 
 パウロはイエスを信じ、バプテスマを受け、「イエス様こそ神の御子であり、私たちの救い主です。」と、人々に命がけで宣べ伝え始めました。イエスと出会い、まったく新しい人へと変えられたのです。
 
 そんなパウロが、『ローマ人への手紙』の中で次のように語っています。
 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(3章23節)
 「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(6章23節)
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(5章8節)

 私たちには、自分でどうすることのできない罪の問題があります。しかし、イエス・キリストはそんな私たちのために死んでくださったのです。それは、私たちが死によって滅びることなく、天国で神と共に過ごすためでした。神を信じるということは、神と共に生きる決心をすることです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」。ぜひ、神様からの愛を受け取っていただければと思います。
上里キリストチャペル
坂藤頌一
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2020-07-26
「人の罪と神の愛」

 今日は、聖書にあって他の本には書かれていない「人の罪と神の愛」について考えたいと思います。
 
 法律を犯すことが罪であるのは言うまでもありませんが、日本人特有の気質として、「人に迷惑をかけることは悪い。しかし、人に迷惑をかけないのであれば、あるいは人目に触れないのであれば、多少の不正は問題ない。」という意識があるように思います。では、聖書が示す罪は、どういうものを指すのでしょうか。新約聖書のコロサイ人への手紙1章21~22節に、このように書いてあります。

(21節)あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
(22節)今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
 
 21節から、罪が三つの面を持っていることが分かります。すなわち、第一に「神から離れ」とある「神に対する態度の罪」、第二に「敵意を抱き」とある「心の罪」、第三に「悪い行いの中にありました」とある「行いの罪」です。
 人はなぜ悪い行いをするのでしょうか。それは、心に悪い思いを持つからです。これは、一般に理解されていることだと思います。それでは、なぜ人は心に悪い思いを持つのでしょうか。聖書は明確な答えを持っています。すなわち、「人が悪い思いを持つのは、神に信頼せず、神に背を向けて生きていることによる」というのが、聖書の答えです。罪の根本的な問題は神に対する態度にあり、そこから罪が人の心に及び、それが行ないとして現れるというのが、聖書が述べるところです。

 聖書は、全ての人が罪を持っていると語る一方で、どんなに大きな罪を犯した人でも、神の目には尊い存在だと言っています。神は、母親の胎にいる時から一人一人を目にかけてくださり、神を知ることができるように働きかけ、罪を赦そうとされるほどに、全ての人を愛していると言うのです。
 その証拠は何なのでしょうか。それは、神の御子イエス・キリストが、全ての人が犯す罪の罰を身代わりに受けることで、私達の罪を赦してくださることです。22節にあるとおり、神は御子イエス・キリストの死によって、私達を罪のない者として扱おうとされました。イエス・キリストが十字架にかかって死んだのは、神が全ての人の罪を赦そうとしていること、一人一人を愛していることの証明なのです。
 神は、私達に罪という大きな問題があると語ると同時に、その私達を愛し、何にも代えられない価値を見出しています。罪の赦しを得るために私達がすべきことは、自分の罪を認め、イエス・キリストによる救いを受け入れることだけです。私達を愛し尊重してくださる神を知り、自分が罪人であることを認めていただくことを心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚歩
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2020-07-19
「真に生きる力」

 私たちは今、大変な時代に生きています。疫病の蔓延、異常気象による水害、地震、津波、イナゴによる食糧危機、経済の破綻、戦争のうわさ、ともすればそれらの情報に翻弄されて不安に捕らわれてしまいます。
聖書には(第二テモテ3:1-5)「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。」とあり、また、(マタイ24:12)「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」と書いてあります。
今回の新型コロナによって、人や国のエゴがあぶり出されたと言われていました。そのような時代に、私たちの「生きる力」はどこからくるのでしょうか。
 また、これからの時代は、前述のような苦難が続けて起こってくる可能性が高くなってきたと言えるのでしょう。
 そのような時に、私たちは「真に生きる力」を持っているでしょうか。確かな、動かされないものを持っているでしょうか。
今から二千年前、イエス・キリストは十字架に架かられる苦難をあらかじめ知っておられ、ゲツセマネの園で、その苦難のために祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と、血の滴りのような汗を流して三度も祈られました。しかし、三度目に「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。」と言って十字架に向かわれました。
 イエス・キリストの十字架は、私たちのすべての罪を贖うための身代わりの死でした。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」十字架上のイエスの言葉です。父なる神はこの方を、三日目に死者の中からよみがえらせました。
すべての絆の元である神は、罪と死に打ち勝ったイエス・キリストによって、永遠の希望を私たちに与えてくださったのです。是非、この方を信じて、イエス・キリストを自分の救い主として心に受け入れてくださることを、お勧めします。

上里キリストチャペル
坂藤省二
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2020-07-12
「キリストのもとへ」

皆さんは、連続テレビ小説「エール」を見ていますか?今は再放送になっていますが、今回子供の頃から好きだった古関裕而さんがモデルということで、録画して見ています。私は小学生の頃から高校野球好きそれから巨人ファンでした。江川問題、桑田問題を経て阪神ファンになりました。また、オリンピックが始まると夜中でも見てしまいます。そこまで言えば古関さんの名前が出てくるでしょう。「栄冠は君に輝く」「闘魂込めて」「六甲おろし」「東京オリンピックマーチ」の作曲者です。古関さんは時代に流されるままに、戦時中はたくさんの軍歌を作りました。「勝ってくるぞと勇しく」で始まる「露営の歌」も古関さんの作曲です。戦後自分の作った曲で多くの若者を戦地へ送ってしまったことに心を痛めました。そして、戦争で傷ついた人たちの心を少しでも慰めようとして作った曲が「長崎の鐘」でした。
今回はもう一人、やはり戦争で心を痛めた人を紹介したいと思います。新幹線の開発に携わった三木忠直さんです。三木さんは初代新幹線、通称0系の先端のデザインを設計したことで知られる人です。20年前NHKのプロジェクトXという番組で私も知りました。三木さんは戦時中、特攻兵器「桜花」の設計開発した人なのです。その特攻兵器に乗って多くの若者達が死んでいったのです。終戦後、罪責感に苦しんでいた三木さんは教会へ行き聖書の言葉に触れました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイの福音書 11章28節
三木さんはクリスチャンになりました。キリストのもとへ行ったのです。
私たちはうわべだけの御利益宗教ではなく、私たちを造られたお方、その方に遣わされたお方、神ご自身であるキリストのもとへ行く以外に真の解決はないのです。皆さんの中に多かれ少なかれ罪責感に苦しみ悩んでおられる方がいると思います。是非、キリストのもとへ行かれることをお勧めいたします。

上里キリストチャペル
清水 充
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2020-07-05
「放蕩息子のたとえ」

17世紀のオランダ人画家レンブラントをご存じでしょうか?
彼が描いた作品に「The Return of the Prodigal Son」というタイトルの絵があります。(文末掲載)
日本語に訳すと「放蕩息子の帰還」というタイトルになります。
この作品は聖書の一場面をモチーフに描かれました。

新約聖書のルカの福音書15章11節~32節に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれている個所があります。
イエス・キリストが人々に語られたたとえ話です。
このたとえ話には主に3人の登場人物が出てきます。
父親と2人の息子です。
弟息子が父親に財産の分け前を要求しました。
本来、財産は父親が亡くなってから相続するのが普通ですが、この弟息子は父親がまだ生きているうちに生前分与を求めたのです。
父親は2人の息子に財産を分けてやりました。
すると、それから何日もしないうちに弟息子は家を出て行ってしまいました。
そして、遠い国で自分の好き勝手に生き、財産を湯水のように使い切ってしまいました。
すると、その国で大飢饉が起こり、弟息子は食べるのにも困るようになりました。
弟息子に食べ物を与えてくれる人はおらず、豚のエサで腹を満たしたいと思うまで落ちぶれてしまいました。
そのような状況でこの弟息子は我に返ってこう思ったのです。

『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

弟息子はこのように思い、家に向かいました。
まだ家までは遠かったのに父親は弟息子を見つけ、駆け寄って抱き寄せました。
弟息子は父親の腕の中で謝罪のことばを語りますが、父親はそれをさえぎるようにしもべたちにこう言いました。

『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』

この父親は悔い改めて帰って来た弟息子をとがめもせず、ただただ帰ってきたことを心から喜んだのです。
冒頭で紹介したレンブラントの絵は、まさにこの場面を描いたものです。

このたとえ話の“父親”は“神”を表しており、“弟息子”は“私たち人間”を表しています。
父なる神とその神から遠く離れて罪の中で生きている私たち人間を表しています。
神は私たち人間が罪の中から悔い改め、神の元に帰ってくるのを心から待っておられます。
まさに、このたとえ話の父親のように大きな愛をもって待っておられます。
ぜひ、イエス・キリストをご自分の救い主として信じて神に立ち帰られますことを心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
飯塚ー也
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2020-06-21
「ゆるぎない人生」

皆様、こんにちは。今回は「ゆるぎない人生」というテーマで聖書からお話をします。

だれしもが、人生が豊かで順調に行く事を望んでいると思います。しかし、思い通りに行かない事が多いのではないでしょうか。

今年初め、考えもしなかった出来事が起こりました。それは「新型コロナウイルス」が発生したことです。

これにより、私たちは集まり楽しい会話をすることが出来なくなりました。また、仕事も減り給与が減り、失業や廃業を余儀なくされた人たちもいます。

讃美歌に「人生の海の嵐にもまれきしこの身」という歌詞があります。人生はまさに海であり、思いもよらない嵐が吹き荒れると言えるでしょう。

聖書の中に、「ある時、イエス様と弟子たちが一日の活動を終えて、夕方、ガリラヤ湖の向こう岸に行こうとして舟を乗り出したところ、突然、激しい突風に遭う」という大変な事に出会ったことが書かれています。(マルコの福音書4章35~41節)

弟子たちの中には漁師もいました。少しぐらいの嵐にはびくともしませんが、今回は「命が危ない!」と思うほどのものすごい嵐だったのです。波が舟の中にたくさん入って来たのです。しかし、こんな大嵐に平安をもって「眠っていた人物」がいました。イエス様です。

弟子たちは悲痛な叫びでイエス様に「先生、私たちが死んでもかまわないのですか」と言いました。イエス様は起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、すっかりなぎになったのです。イエス様が一声かけただけで風や湖が静かになったと言うのです。普通ありえませんが、この時は別でした。なぜなら、イエス様は「神の子キリスト」だからです。

私達は人生が順調にいっている時はあまり考えないものですが、いざ、問題が起こると、慌てふためき困惑します。「なぜ? なぜ? なぜ?」と思うのです。イエス様は嵐の中で命の危険にあっても「平安」でいました。

今回のように失業や廃業した人は働きたいのに働けず生活が出来なきないのです。ストレスがたまり、これから「どうしたら良いのか」と考えこんでしまいます。

イエス様は弟子たちに言われました。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」と。

大変なことが起きたとしても常に平安を持って「ゆるぎない人生」を歩みたいと思いませんか。それは、イエス様に対する信仰(信頼)です。

続けて聖書の話を聞き、この素晴らしいイエス様を知って頂きたいと思います。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
大塚高男
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2020-06-14
「あなたの罪は赦された」

今日も聖書から考えていきましょう。
なかなか出口が見えない新型コロナウイルスとの戦いが続いています。多くの方が疲れと不安を覚えていらっしゃるのではないでしょうか。

さて、聖書マルコの福音書2章に、中風(脳卒中等で麻痺が残る病)を患った人が出てきますが、彼もまた先の見えない戦いの中で疲れや不安を覚えていた人であったと思います。
彼の仲間たちは、彼を担いでイエス様のところに連れてきます。「この方に会えば必ず何とかなる」と信じたからです。
しかし、最初にイエス様が彼に言われたことばは意外なものでした。

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」(2:5)

イエス様は、その病をすぐに治されたのではなく「あなたの罪は赦された」と言われたのです。
周りで聞いていた群衆のざわつきをよそに、この人の反応は私たちに大切なことを教えています。
続いてイエス様は、彼にこう言って中風を治されます。

「『あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。』すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。」(2:11)

さて、ここで大切なこととは、この人にとって何が本当に重要で本質の問題であったのか、ということです。
彼が治った後の行動を見れば、実に淡々と家に帰った様子が描かれています。この人にとって、最初にイエス様が語られた「あなたの罪は赦された」ということが、彼にとっては本質の問題であり、彼はそれに気づき本当の意味で人生の問題の解決を得たのではないでしょうか。その時点で、もうすでに彼の問題は解決していたからこそ、病がいやされたことは彼にとって二次的な喜びであったため、淡々として寝床を担いで家に帰ったのだと思います。

さて、現代の私たちが抱える問題の本質はどこにあるのでしょうか。
それは、私たちの創造主である神様を無視した生き方から来る「罪」の問題です。
この問題の唯一の解決方法は、イエス様の十字架の贖いによる罪の赦しを受けることだと聖書ははっきり伝えます。

あなたは、この語りかけに、どう応答しますか?
「あなたの罪は赦された」
私たちの罪を赦してくださるために、私たちの身代わりにイエス様を十字架でさばいてくださった神様の大きな愛を受け入れ、変わることのない希望に満ちた人生へと進まれますよう心からお勧めいたします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫
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2020-06-07
「全世界を造られた神がおられる2」

創世記1章1節
「はじめに神が天と地を創造された.」

皆さん、こんにちわ。今回も、先週に引き続き、同じテーマで考えてみたいと思います。

ところで、皆さんは、上記の聖書の言葉を読んだ時に、「そんなことはないな。」または、「バカらしい考えだ。」と感じた方もいると思います。
なぜ、そう感じたのでしょうか?
それは、皆さんがこれまで受けて来た教育によります。
実は日本の教育は、小学校から大学まで「進化論」が根底になって構築されています。
ご存知でしたか?例えば、中学校の社会では、進化の過程として猿人が生まれて来たことを教えています。理科では、進化論が一つの「理論」であるにもかかわらず、あたかもこれこそ真実の考え方であるかの様に取り扱われています。「系統樹」という進化の過程を木の成長に模して表した図を思い出す人も多いのではないかと思います。
ある時偶然に一つの細胞が生まれ、その細胞が増え多細胞へ、そして、最後には人間へと繋がっていくと教えられて来ました。
ですから、この聖書の言葉を聞くと、反射的に「間違っている。」と感じてしまうわけです。

しかし、考えてみてください。無から有が生まれるのでしょうか? 0に幾つを掛けても0である様に、無から有は生じないのです。また、進化の重要な過程は「突然変異」と言われていますが、現代の「細胞レベル・染色体レベルでの解析」から、それは無理があることは明らかなのです。

進化論的に考えるならば、「私が生まれて来たのも偶然、生きる目的も不明瞭、死ぬのも偶然」となります。

しかし、聖書は「神が造られた」と言います。そして、「あなたは、神に愛されて、神の豊かな選びの中でこの世界に生まれて来た。」と教えます。人は、この「創造主=神」を知る時にそこで人生が変わります。例えてみると、白黒の映像が、突然カラー映像になる如くです。

今は「コロナ災害の時期」です。どうか、この様な時にこそ「私を造られた創造主=神とは、どんな方なのか」について、考えてみませんか?

このメッセージは、これからも続きます。是非続けてご覧ください。また、チャペルで午後の集まりが再開された時には、是非上里チャペルの「BCH(バイブルコーヒーアワー)の時間」に来場されることを期待しています。

上里チャペル
市川 忍
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2020-05-31
「全世界を造られた神がおられる」

創世記1章1節
「はじめに神が天と地を創造された。」

この世界はどのようにしてできたのか。その疑問に、聖書ははっきりと答えています。
私たちの住む地球、太陽や月、それら含め20億個の星をもつ銀河系、さらにその銀河が1000億個以上もある広大な宇宙。
また、私たちが住む地球上のあらゆるもの、まだ知られていないものも含めると870万種いるといわれている生物、空気や水、そして、37兆個もの細胞でできている人間。
すべてのものは偶然にできたのではなく、神が目的をもって造られた、というのです。そのことにどんな意味があるでしょうか。それは、私たちが偶然に生まれた価値のない存在ではなく、私たちは神が私たちを創造しようと決心なさったほど、神の目に尊い存在だということです。

イザヤ書43章4節
「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」

神は私たちを愛しています。そして、私たちが神の永遠の故郷である天国へ行って神とともに住むことを望んでおられます。そのために、神は十字架によって私たちの罪の代価を支払うことで、天国に行くことを可能にしてくださったのです。
神が人間を造った最も大きな目的は、愛による交流をもつためです。神は人間を考える存在として特別に造り、自由意志を与えられました。したがって、人間は何かをしたり、しなかったりする自由を持っています。

私の好きな聖書のことばに、次の箇所があります。

詩篇19篇1~4節
「天は神の栄光を語り告げ
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え
夜は夜へ知識を示す。
話しもせず 語りもせず
その声も聞こえない。
しかし その光芒は全地に
そのことばは世界の果てまで届いた。」

全世界を造られた力ある神がおられます。そして、神は私たちを愛してくださっています。ぜひ、神の愛に応えて、神とともに歩む人生を選択していただければと思います。

最後に、宇宙飛行士のジェームズ・アーウィンのことばを紹介します。

「地球は宇宙の暗闇に浮かぶクリスマス・ツリーの飾りを思い起こさせてくれる。
遠ざかれば遠ざかるほど小さくなり、遂にはビー玉ほどのサイズになる。
想像できないほど美しいビー玉だ。この美しく、温かく、生きた物体は非常に壊れやすく、繊細に見え、指で触れれば、砕け散ってしまいそうだ。
これを見た人間は変えられ、神の創造と神の愛を感謝せずにはいられなくなる。」

上里キリストチャペル
坂藤 頌一
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2020-05-24
「わたしの心だ、きよくなれ」

今日も、ご一緒に聖書から考えてみましょう。

今、私たちは新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされていますが、今から2千年前イエス様がおられた時代にも感染症はありました。これはイエス様と出会った感染症患者が癒やされたという記事です。

「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。『お心一つで、私をきよくすることがおできになります。』
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」(マルコの福音書1章40節~42節)

このツァラアト(重い皮膚病)という病は当時不治の病として特に恐れられていました。また、当時のユダヤ人社会では宗教的汚れを嫌い、その汚れた者にさわればその人も汚れるとされ、コミュニティーから完全に排除されて一生を終えなければなりませんでした。いわゆる隔離政策です。

ここで、イエス様は当時では考えられない行動をします。「彼にさわった」のです。これはイエス様自身もユダヤ人社会から排除されてしまう危険をはらんでいました。しかし、イエス様は彼にさわって癒やされたのです。

このことは、イエス様の愛のご性質をよく表しています。感染や汚れ、人々から排除される恐れがあったにもかかわらず、彼を深くあわれみ彼の患部をさわって癒されたのです。
もちろん神であるイエス様は、さわることはせずに「ことば」をもって癒やすこともできました。しかし、あえて彼に「さわり」癒やされたのです。
本当にイエス様の深いあわれみと愛がよく表された記事だと思います。

さて、そのイエス様の愛の究極の現れは何でしょうか。それは、聖書のメインテーマである「私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださった」という事実です。

聖書は、私たちが創造主である神様を忘れた結果、「罪」を持つ者となったと語ります。身体の病は私たちが生きている間だけのことですが、心の病である「罪」は永遠に私たちを苦しめる病であります。この心の病の癒やし、完全な罪の赦し、永遠のいのちを与えるために、神様は、救い主イエス様を送ってくださったのです。

今日、イエス様は、あなたの心にも語りかけています。
 「わたしの心だ。きよくなれ」
ぜひ、この罪の赦しと永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めします。

上里キリストチャペル
田島美佐夫
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2020-05-17
「神と共に歩む確かな人生」

 このホームページを見てくださる皆様、こんにちわ。今回も聖書の話をお聞きください。

 ところで、高校時代、授業で先生が「◯◯君、もし、無人島で、1冊しか本が持っていけないとしたら、どうするかな?」と聞きました。彼は「聖書を持っていきます。」と答えました。次の生徒も同様に答えました。先生は「なるほど、みんないいこというな。」と言い、授業は進みました。何げない一コマでしたが、私は、「聖書って大事なのだ。」と感じたことを覚えています。その後、私は、アメリカ人宣教師に出会い、聖書の紹介するまことの神を信じ、クリスチャンとなりました。今、50年が経ち、確信を持って言えることは「全ての人にとって聖書の話(福音)はいのちの次に大事なものだということです。」

 さて、聖書の中に
「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売してもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。
あなたがたは、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間、現れて、それで消えてしまう霧です。
あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私達は生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」というべきです。(新約聖書:ヤコブの手紙5章13節~15節)
という箇所があります。

「明日のことは、分からない。」ということが今の実感ではないでしょうか。
現在、コロナの疫病で世界中が止まってしまいました。誰が、このような世界を想像したでしょうか? 明日の確実な保証は誰にもないのです。

上記の聖書の言葉で注目は後半の「主のみこころであれば…」です。主とは神のことです。私達は神にあっていのちの保証があり、安心して日々過ごすことができる。というのです。

聖書の紹介する神は、罪を犯した私達のためにイエス・キリスト(救い主)をこの地上に送ってくださり、イエスが十字架にかかり、私達の罪の身代わりに死んでくださったことにより、信じる者を罪の滅びより救ってくださる。と約束された方です。

 今は、まさに先の見えない時代です。しかし、「神を信じ、神と共に歩む」ことで安心した確かな人生を歩むことができるのです。

上里キリストチャペル
市川忍
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2020-05-10
「命がけであなたを愛していてくださる神」

最初に聖書のことばをご紹介いたします。

ペテロの手紙第一 1章18節から19節
「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

ペテロの手紙第一 3章18節
「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」

初めて聖書のことばに接する方には難しいかもしれません。しかし、私たちに近づいてくださる神様のメッセージとして、このことばを味わっていただきたいと思います。
私たちが生まれ育った日本では「聖書」に触れる機会がほとんどありません。学校の授業でも、日本の生活習慣の中でも、聞くことも見ることもほとんど稀です。
しかし、今このメッセージを見てくださっているあなたは、今日、聖書のことばに接しています。このページにアクセスしてくださり本当にありがとうございます。
是非、神様について知っていただきたいと思います。

ポイントを箇条で記します。
①生まれながらの生き方は、拠り所がなく、不安定である。
②私たちを贖ってくださるために、神であるキリストが犠牲となってくださった。
③キリストが十字架につかれたのは、正しくない人、すなわち私たちの身代わりとしてであった。
④キリストの十字架を通し、私たちは神の下に霊的に生かされた者となり、神様との生きた交わりが回復される。

今までに神様を知る機会が少なかったと思いますが、実は、神様は命がけであなたのことを心配してくださり、愛してくださっていたのです。
神様が造られた自然や、私たち人間の体やいのちを見るときに、神様について知ることができます。
聖書を通しても神様を知ることができます。
ただし、そのような神様について考えられるチャンスを見過ごしてしまうと、神様を知ることができません。
今日、このメッセージを通して、また聖書のことばを通して、静かに立ち止まり、神様に向き合って、神様の語りかけに耳を傾けていただきたいと思います。

私は、この神様を知ることができ、信じることができ、いつでも神様に寄り添いながら歩むことができる幸いを本当に感謝しています。
神様はあなたにも近づいてくださっています。
神様からの恵みがあなたとともにありますように、お祈りしております。

上里キリストチャペル
久保 哲
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